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特集 (2)走ることができれば…サイボーグみたいな生活

2014年9月19日更新
写真:撮影・宮川舞子 撮影・宮川舞子

――それからはずっと活発な、リーダーシップをとるようなタイプでしたか?

 中学に入ってからはスポーツに力を入れ始めたので、学校の勉強がどうでもよくなってしまって、偏ってきましたね。高校生になると、その思いがもっと強くなって、走ること以外はどうでもいいと思い始めました。我が強かった頃は、学校中に友達を作る感じでしたけれど、そういうのもなくなって、クラスの友達ぐらいで女の子とは話せないような。狭い狭い世界で、速く走ることが出来れば何もいらないと、サイボーグみたいになって、徹底した生活をしていました。

――その後、徹底した生活はずっと続いていくんですか?

 大学生になって東京に出て来て、大学生活を少し経験して、少しゆるくなったというか、それによって競技生活も向上していったんですよ。それまでが変に真面目にやり過ぎていたのかなと。大学に来て肩の力が抜けていい状態になったんですよね。陸上の友達だけでなく、色んな友達たちと仲良くなって、彼女も出来たり(笑)。競技も順調で、大学になってスポーツをするというのはただ真面目にやっていてはダメだな、もっと色んな要素をしっかり取り入れて、友達関係も、勉強も、学校も大事にしながら、スポーツもしっかりやることでうまくいくんだと学びました。大学時代は充実していたなと思いますね。

――その中で具体的にはどんな競技生活を送られていましたか?

 やはり厳しかったですよ。日々の生活も練習の一部だと言われていましたから。食べること、寝ること、休むこと……全て練習です。暴飲暴食、深酒、タバコはもちろんダメ、門限は毎日21時半、朝は6時半から朝練……スポーツで何かをするということは、色んなことを犠牲にして自分を戒める、環境に縛り付ける生活でしたね。その中で大学生活も少し楽しみましたよ。

 何と言っても一番充実したのは競技で成果が出たときですね。でも頑張りすぎるとけがをしてしまうんです。1年の3分の1の期間を棒にふることもありました。けがのせいで1年生と3年生のときは箱根駅伝を走れていないですからね。治療にお金もかかって、親に負担をかけてしまうのも心苦しくて。陸上しかなくて、陸上をすることが親への恩返しにもなるし、自分自身の将来につながっていく道でした。競技生活に一喜一憂するというのが、僕の陸上競技時代の12~13年間の人生でしたね。

――修行みたいですね。

 本当にそうです! そのバランス感覚が難しくて、真面目にやりすぎても、根を詰め過ぎてもダメだし、じゃあ不真面目にやればいいものでもない。そこのさじ加減がむずかしいなという感覚でした。

――大学を卒業して実業団に入ったけれど、陸上をやめて俳優の道に進まれたのは、どういうきっかけや心情の変化があったのですか?

 大学を卒業して、実業団に選手として入社して、そこに行ってみたらアマチュアとはいえプロなんですよね。陸上をすることで飯を食うという。ダメな人はどんどん切り捨てられ、新しい人が次々に入ってくるという過酷な世界です。各大学のスーパーエースみたいな人たちが集まっているので。1年目からそこで活躍するのは難しいし、トレーニングも急にハードになるし、案の定、けがをたくさんしてしまって、1年間のほとんどをけがしていました。一度いい結果を出して、ちゃんと体を鍛えてやっていけば通用する実力はあるんだと実感したし、チームの人たちにも知らしめられたんですが、けがをしたらダメなんだということも実感しました。

 けがをしている最中に、ほとんどの選手は当然のように、早くけがを治したい、と思っていると思います。そんな中僕は、ふと、陸上をしていなかったら何をしていたんだろうと考えてしまったんです。いつまでも実業団にいられるわけではないし、いくら頑張っても30歳過ぎまでしか選手として活躍出来ないんだよな、と。その先は企業に社員として残るか、教職を持っていたのでやめて教師をめざすか……これまで青春時代も犠牲にして修行のようにストイックにやってきたものが、30歳過ぎて奪われてしまうんだと思ったときに、急に、自分の人生がせつなく感じてしまったんです。

 学生時代に比べて社会人になると、練習と仕事でまったく自由な時間が取れず、社会人ってこんなに窮屈なんだと思ってしまった事もありました。これが死ぬまで続くんだ、競技を奪われたらなおさら自由じゃない何かに捧げる時間が続くんだ、と思ったらここから先の人生に対して急に不安を感じてしまって。こんな感じで僕の人生は終わっていくのは嫌だ、何か他にないのかと。

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