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特集(2)「あかねさす」より200年ほど前

2013年5月23日

写真:「月雲の皇子 ―衣通姫伝説より―」より「月雲の皇子 ―衣通姫伝説より―」より、木梨軽皇子役の珠城りょう=撮影・岸隆子

 たまたま隣の席で観劇をしていた年配の男性が、「この話は歴史を知らないとわかりづらいなあ」なんて話していたが、確かに私も、日本史の中でも戦国時代や幕末、そしてタカラヅカファンにはおなじみの飛鳥時代などに比べると、この時代のことはあまりよく知らない。

 そこで、少し調べてみることにした。まず、プログラムをみると「時は5世紀」とある。皇子たちの父である允恭天皇は第19代の天皇で、その父親が古墳で有名な仁徳天皇だ。

 皇位を継いだ穴穂皇子は安康天皇(第20代)となるが、彼もすぐに暗殺されてしまったらしい。結局その後を継いだのは、木梨、穴穂のさらに弟にあたる大長谷皇子(朝美絢)で、第21代の雄略天皇となる。

 この天皇の名前は聞き覚えがあった。この時代は大和朝廷の力もまだ盤石とはいえず、敵対する豪族との戦いが続いていた。雄略天皇の時代に大和朝廷の権力はいっそう増大したといわれており、478年、当時の中国に「倭王武の上表文」なる文を奉ったのも雄略天皇だといわれている。

写真:「月雲の皇子 ―衣通姫伝説より―」より「月雲の皇子 ―衣通姫伝説より―」より、穴穂皇子役の鳳月杏=撮影・岸隆子

 朝鮮半島に目を転じてみると、当時の朝鮮半島は高句麗、新羅、百済の三国などに分かれていた。このうちの高句麗と日本が391〜404年に交戦したという記録が、高句麗の「広開土王(好太王)碑文」に残されている。この「広開土王」とは、「太王四神記」のタムドクのことだ。してみると、「月雲の皇子」は「太王四神記」の時代より少し後のお話ということになるのだろう。

 朝鮮半島からの渡来人はこの時代すでに大和朝廷でも活躍していた。今回の作品でいうと、参謀役の身狭村主 青や王家の記録・文書を司る史部(ふひとべ)役の博徳(はかとこ・輝月ゆうま)がそうだ。漢字の使用が始まったのもこの頃で、漢字を使って朝廷の記録・出納・外交文書作成などを行うのも渡来人の役目であった。

 なお、衣通姫伝説が残されている「古事記」「日本書紀」が編纂されたのはだいぶ後の8世紀初頭のことだ。このうち「古事記」の編纂には、「あかねさす紫の花」の大海人皇子こと天武天皇も関わっている。「日本書紀」が漢文を使い編年体でかっちりと作られているのに対し、「古事記」は朝廷に残された記録をもとに漢字の音訓を使ってまとめられている。おそらく、博徳先生らが残した記録が、のちに「古事記」としてまとめられていったということになるのだろう。

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