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特集【トピックス】朝日新聞連載「おお宝塚 学舎100年」(1)〜(4)
おお宝塚(1)「こんにちは 私の青春」

2013年7月17日

 7月15日に創立100周年を迎えた宝塚音楽学校。この学舎(まなびや)から約4400人がタカラジェンヌの道を歩んでいきました。スターファイルでは、8日から朝日新聞大阪本社版夕刊に掲載した「おお宝塚 学舎100年」4回分を、まとめて掲載いたします。戦前に初舞台を踏んだタカラジェンヌや現役スターの元同期生、未来のタカラジェンヌなどを取材したもので、宝塚音楽学校100年の歴史を知ることができます。(デジタル本部) ※有料読者の方は全文をお読みいただけます。

 朝5時。閉ざされた校門をよじ登り、校内へ忍びこんだ。「だれよりも早く教室にいって、ピアノの稽古がしたかったんです」

 1960年、タカラジェンヌの卵を育てる宝塚音楽学校(兵庫県宝塚市)に入った博多娘。3年後に「こんにちは赤ちゃん」で日本レコード大賞に輝いた歌手の梓(あずさ)みちよ(70)はいう。

 幼いころから通ったバレエ教室の先生が元タカラジェンヌ。影響を受け、中学生で初めて宝塚を見た。月組トップスター内重(うちのえ)のぼるに一目ぼれ。ちょっと不良っぽい役が似合い、「女・石原裕次郎」とも呼ばれた男役だ。

 私も男役になりたい! 母に内緒で音楽学校を受験したら、一発合格。16歳で、すみれ寮生活にとびこんだ。

 寮の1台のピアノは上級生が使う。1年目の予科のころ、ピアノを練習するには学校へ早く行くしかなかった。「一番だと思ったのに、ピアノの音が聞こえてきた時はショックでした」

 学校で声楽やバレエ、日本舞踊をみっちり学ぶ上、遅くまでタップダンスなど個人レッスン通い。「門限を過ぎると寮長さんがそっと裏口から入れてくれたの」。80人近い48期でトップの成績だった。

 息抜きの場所は寮近くのお好み焼き屋「むつみ」。みつ豆に氷がのり、ミルクがかかった「三階」と呼ばれるかき氷が名物で、同期生と通いつめた。

 渡辺プロダクション社長に出会い、歌手デビューすることになり、1年半で音楽学校は中退した。だが芸能界でも音楽学校で培った歌唱の基礎が強みだった。ハスキーな声で歌う「二人でお酒を」は74年のヒットになった。

 宝塚ではその年初演の「ベルサイユのばら」が大ブームに。梓は、初代オスカルを演じた1期後輩の月組トップスター榛名(はるな)由梨の大ファンになり、劇場に足しげく通う。

 大地真央、剣幸(つるぎみゆき)とトップが代わっても月組メンバーは東京公演のたび、梓の自宅に食事に来た。「鍋や焼き肉。男の人も真っ青なぐらいよく食べたの」

 宝塚に残ればよかった、と後悔がよぎったこともある。母は亡くなるまで、音楽学校のグレーの制服を大事に持っていてくれた。

 「タカラジェンヌの毅然(きぜん)としたところが好き。娘がいたら、宝塚に入れたかった」=敬称略(生活文化部・成川彩)

【写真】宝塚音楽学校時代の梓みちよさん。早朝からピアノの練習のため、この校門をよじ登った=本人提供

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