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特集おお宝塚(2)「予科の1年 私の証し」

2013年7月17日

写真:宝塚大劇場前の「花のみち」に、背筋もぴんと立つ岡野廣子さん宝塚大劇場前の「花のみち」に、背筋もぴんと立つ岡野廣子さん=兵庫県宝塚市、滝沢美穂子撮影

 宝塚歌劇団の卒業生でつくる同窓会の一つに「宝友会」がある。約420人の会員のなかで、数少ない昭和一桁の初舞台組が、兵庫県宝塚市に住む岡野廣子、97歳。芸名は竹田鶴子といい、ダンスの得意な娘役だった。

 宝塚音楽歌劇学校(当時)に入ったのは1930年。当時は1年制で予科だけ。こわ〜い上級生もいない。「和気あいあい。いい時代でした」

 そのころ、宝塚は演出家の白井鐵造(てつぞう)がパリ修業から戻って手がけたレビュー「パリゼット」が人気だった。そのなかの一曲が、のちに宝塚を代表する曲になる「すみれの花咲く頃」だ。

 予科生だった14歳の岡野も何度も観劇。真夏の大劇場にその歌が流れた場面をはっきり覚えている。劇場の窓は開け放たれ、扇風機が満員の客席の熱気をしのいでいた。

 岡野ら総勢70人の予科生は甲乙丙3クラスに分かれてピアノやダンス、声楽を学んだ。試験の成績が悪ければ容赦なく退学させられた。

 クラシックバレエを教えるエレナ・オソフスカヤは、帝政ロシアで活躍した元バレリーナ。宝塚の創設者小林一三が、大金をかけて宝塚へ招いたという。

 「つま先、かたい」

 あるとき、オソフスカヤが片言の日本語でぴしっと言った。ふにゃっと足元の力を抜いたら「もっとかたい、かたい!」。どうやら力を入れて踏みしめろ、という意味らしい。戸惑ったり笑いをこらえたりしながらの1年は、たちまち過ぎた。

 岡野は、いまも一人で阪急電車に乗って買い物に出る。携帯を使いこなし、掃除や洗濯もする。その身のこなしは「オソフスカヤにみっちり教えてもらったおかげ。ダンス専科ですから」。

 あの予科の1年があったから、いまがある。

 「あなた、あたまキャベツね。むいてもからっぽね」。岡野の7年後輩になる池内淳子(あつこ)(89)は予科時代、すっかり日本語の上達したオソフスカヤにこう怒られた。

 日中戦争の勃発した37年に入った池内の同期生は、乙羽信子や越路吹雪ら約100人にのぼる。

 「ライバル意識なんかなくて助け合う存在だった」

 ♪白雲なびく 六甲の〜

 毎年秋、宝塚大劇場近くの宝塚ホテルに100人以上のOGが集う。宝友会の総会だ。全員起立。会の冒頭で必ず歌うのはいつもこの曲、音楽学校の校歌だ。締めくくりは、やっぱり「すみれの花咲く頃」。どちらも、歌えるのは元タカラジェンヌだからこそ。宝塚にいた証しだ。=敬称略(生活文化部・谷辺晃子)

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