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宝塚プレシャス

由美子へ・取材ノート

第15章 日航123便

(2007.7.17)
 夕食をすませて、テレビを見ながら、私はあと片付けをしていました。すると、ニュースで日航機が行方不明という一報が流れました。
 とっさに、由美子があのまま宝塚にいたら、巻き込まれている可能性もないわけじゃないけれど、やめていてよかったわ、と他人事のように思って、あとはごく一般的に、テレビの前でその後の報道を見ていました。
 事故の一報から、どのくらいたったときでしょうか。電話がかかってきました。
 ………
 「由美子さんが、事故機に乗っているはずなんです」
(「由美子へ」第3章・日航123便)

 1985年8月12日、月曜日、夕刻。羽田発大阪行き日航123便ボーイング747型機は、定刻より12分遅れて6時12分に羽田を出発した。乗客509人と乗員15人、全部で524名を乗せていた。吉田由美子のシートナンバーは29D、通路側の席である。747型ジャンボ機は2階建てで、歌手の坂本九は2階席の64H、由美子のそばの31列ABCには、三代目伊勢ケ浜親方(元大関清国)の妻子がいた。この事故で奇跡の生存者として救出された人たちが4名いたが、それぞれ最後尾に近い50列あたりの席に座っていた。

 天気は好天、気温29度、南西の風8メートル、周辺には雷雲や乱気流の発生は報告されていなかった。

 事故の経過を、事故調査委員会の報告書に従って書いていくとこうである。

      ◆

午後6時24分  伊豆半島西方の相模湾上・高度約7200メートル
 「ドーン」という衝撃音とともに異常が発生。機体の垂直尾翼の一部とテールコーン(円錐形になっている飛行機の最後尾)の一部を破壊。油圧系統が使用不可能になる(電気系統は無事)。これにより123便はダッチロール(機首が左右に揺れる)運動とフゴイド(機首が上下に揺れ、速度も変化)運動におちいる。それらをエンジンのみで制御しなければならない状態で、30分飛行を続けることになる。
午後6時25分  伊豆半島西方の海上 高度約7170メートル
 123便、東京ACC(東京航空交通管制部・所沢)に羽田への帰還を要求する。
午後6時26分  下田北方上空
 123便からの通信「油圧がだめになった」。(乗客に酸素マスク着用が指示される)
午後6時28分  駿河湾上空 高度約6630メートル
 123便からの通信「現在操縦不能」。パイロットは機長の指示で右旋回を始める。
午後6時35分  静岡県と山梨県の県境上空 高度約6420メートル
 123便からの通信「右最後部R5のドアが壊れた」(これはのちに航空機関士の誤認と判明)
午後6時40分  山梨県大月付近上空 高度約6720メートル
 123便、右旋回続ける。高度を下げ始める。エアブレーキとして、またフゴイド運動を抑えるため車輪を下ろして飛行。
午後6時44分  山梨県大月付近上空 高度約5100メートル
 123便、大月上空を一周し右旋回を終了、元のコースに戻る。
午後6時46分  八王子西方上空
 機長発言「これはだめかもわからんね」
午後6時47分  八王子西方上空 高度約2700メートル
 機長発言「山にぶつかるぞ」。このあと高度約2040メートルまで降下し、山(地上)に急接近する。そこで機首を大きく上げるのだが、それがのちの失速を引き起こすことになる。ここまで123便は羽田空港、または横田基地に向かって、東に飛行してきたが、これ以降左旋回を始め、西方の山岳地帯に向かっていく。(スチュワーデスから乗客に「高度はだいぶ降りております。もうすぐマスクはいらなくなります」という励ましのアナウンス、続いて「座席の背に頭を支えて…赤ちゃんはしっかり抱いてください。テーブルは戻してありますか、確認してください」)
午後6時49分  東京都西部
 123便に失速警報が鳴る
午後6時50分  東京都と山梨県の県境
 機長発言「がんばれがんばれ」
午後6時50分  高度約2880メートル
 123便 揚力を得るためフラップをオルタネート(電動)で下げる。
午後6時53分  山梨県北部 高度約4100メートル
 123便からの通信「えー、アンコトロール、ジァパンエア123、アンコトロール」
午後6時54分  長野県と群馬県の県境 高度約3400メートル
 123便は主に東京ACC(東京航空交通管制部・所沢) と通信してきたが、ここからは東京APC(羽田空港進入管制部)との交信になる。
午後6時55分 群馬県南部 高度約3390メートル
 東京APCから「羽田のほうはアプローチいつでもレディになっております。横田ランディングも可能になっております」
 123便からの通信「はい了解しました」
午後6時55分19秒
 123便からの通信「あたま上げろー」
午後6時55分42秒
 123便からの通信「パワー」
午後6時55分45秒 
 123便からの通信「あーっ」
午後6時55分47秒 
 123便からの通信「フラップアップ、フラップアップ、フラップアップ、フラップアップ」
午後6時55分56秒
 123便からの通信「パワー」
午後6時56分04秒 
 123便からの通信「あたま上げろ」
午後6時56分10秒
 123便からの通信「パワー」
午後6時56分12秒
 火災警報音が鳴る。
午後6時56分14秒
 GPWS(地上接近警報)が作動し始める。
午後6時56分23秒
 衝撃音が鳴る。
午後6時56分26秒 
 衝撃音が鳴る。
午後6時56分28秒
 御巣鷹の尾根(高天原山腹)に墜落。機体は右30度傾いた状態で激突した。3時間分以上の燃料を積んでいたため、大火災を発生し、1晩たっても煙は舞い上がっていた。
午後7時20分頃 自衛隊・米軍の偵察機が墜落現場を発見。
 だが、防衛庁・NHKからの情報により、当初は長野に墜落と発表するなど、メディアの情報は混乱した。

      ◆

8月13日朝日新聞の朝刊、第一報

 墜落現場となった群馬県上野村の黒澤丈夫村長が、のちにNHKラジオ「心の時代」のインタビューを受け、語ったものをまとめた回想記「日航機事故回想」を読むと、事故現場となってしまった上野村の困惑と、その後の献身的な対応ぶりが、手に取るようにわかる。その内容を簡単に紹介しておきたい。

 「12日の夜10時半頃、県警の本部長から電話がかかり、明日午前5時に機動隊を1500人上野村に入れるから、協力してくれという要望があった。
 翌朝5時のニュースで、ヘリから映した燃えている墜落地点の状態を見て“我が上野村の神流川の源流の本谷の国有林の植林地だ”と直感。我が上野村のすげの沢の尾根に日航機が墜落したと特定する。
 特定した現場は、上野村から30キロ離れていて、長野県や埼玉県の県境で、神流川の最源流である。ひだのように、尾根があり沢があり、細かく峡谷の枝が分かれているので、村の消防団の、しかも奥のほうを知っている諸君に、2人ずつペアになって機動隊や自衛隊の人たちを案内してあげてくれ、と指令を出し、以降、村をあげての救難救助の活動が始まった」

      ◆

 生存者が発見されたのは、墜落後16時間 近く経った翌朝11時頃である。生存者の証言によると、この4名以外にも事故直後には生きていた人たちがいたという。

 事故10年経った1995年8月27日の米軍準機関紙パシフィック・スターズ・アンド・ ストライプスは、元空軍軍人の証言として「日本側は捜索に12時間もかけた」ことを非難する記事を掲載した。同時に、事故直後2時間で現場に到着した米軍ヘリコプターから、ロープによる隊員降下が行われようとしたが、日本側の要請により降下を中止。到着した日本の航空自衛隊ヘリコプターと交替。だが、航空自衛隊は「夜間の隊員降下は自殺行為だ」と称して隊員降下を行わず、ヘリコプターからのロープによる救出は翌朝に延期されたという事実も明らかにされている。

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「由美子へ・取材ノート」について

 「宝塚随一の美女」と称された。同期の黒木瞳と共に注目を集め、退団後は夏目雅子に続く美人女優としてデビュー。しかし御巣鷹の日航機墜落事故が彼女の人生を奪った――。これは、若くして逝った1人の女優北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづった記録である。


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