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宝塚プレシャス

由美子へ・取材ノート

第16章 遭難

(2007.7.24)
 雅彦は番組の中で乗客名簿を読み上げていました。最初のうちはまだ524人全員の分が出そろわず、坂本九さんのお名前はあったものの、由美子の名はありませんでした。
 まさか自分の妹が乗っているとは想像できず、「関西には知り合いも多いので、誰かの名前が入っていたらどうしよう」と心配しながら、名簿を読み上げていたのだそうです。
 10時を過ぎて局に主人からの電話があり、由美子が乗っていたかもしれないということを知らされ「イヤだ!」と唸ったそうです。…
(「由美子へ」第3章・事故現場へ)

  事故と人々

 実家では母が、最初に由美子の遭難の報せを聞いた。

 事故のニュースがテレビに出はじめた午後8時前後に、伊丹空港に迎えに出ていたという知人から電話が入った。

 「事故機に乗っていたはずです」と告げられた。

 「朝、家を出るときは、そんなことは言ってなかったので、最初は信じられなかったんです。でも其田さんに確認したら、大阪に行くかもしれないと聞いていたと。
 由美子の部屋に電話しても出ないし、本当かもしれないと思い、私の妹と弟の家に電話したりしているうちに、乗客名簿に名前が出たらしくファンのかたや友人から電話が次々にかかってきました。とるものもとりあえず、私たちは車で羽田に向かうことにしました。1時間ほどで羽田に着くと、弟の宏志や妹の夫の樋口さんが待っていてくれました」

 羽田には遭難者の身内の者用に、現地までのバスが日航側によって用意されていた。4人はそれに乗せられて事故現場に向かった。

 事務所の其田則男は、その日は夕方からパルコ劇場の芝居を観に行き、食事をして帰宅、その直後に連絡を受けた。

 「テレビで事故のニュースを見ていたところに、北原の実家から事故機に乗っていたらしいという電話連絡が入りました。この時期に大阪に行くかもしれないというのは聞いていました。舞台を観るためと、何人かの友人と会う予定があったようです。
 羽田に行き、ご両親を見送りましたが、正直、その4〜5時間というのは、自分でも何をしてたか覚えていないくらい動揺していました。いざというときのために、『カサノヴァ’85』会見での北原の写真を用意していったので、それをお母さんに渡そうとしたら、すごく厳しい顔をされて受け取らなかった。そのとき、ああ、僕は最悪のことを考えていたけど、ご両親の気持ちがわかってなかったなと、それが一番強烈な記憶です。でも、事務所側の人間としては、自分の感情とは別に、事務的な処理を早めにしておくのが仕事ですから、北原が見つかるまでの数日間、経歴をすぐ出せるように事務所の人間に作らせたり、報道関係の取材に、できるかぎり誠実に対応していました。
 いちばん大変だったのは、当時、夏目雅子も白血病で入院中でしたから、彼女に知られないようにすることで、それが一番苦しかったですね。日航機事故からちょうど1カ月後に夏目も亡くなりましたが、最後まで北原の死は知らないままでした」


遭難を伝える新聞記事

 マネージャーの内藤陽子は、事故の前の日、11日から福岡の実家にいた。

 「実家の新盆で戻っていて、12日の夕方、テレビで“日航機行方不明”という速報を見ていたんです。そして、吉田由美子という名前も見ています。でも私は大阪に行くことは聞いてなかったし、同姓同名だろうと思った。いちおう事務所にも電話をかけたんですが、デスクの子が出て、“私も聞いてないし、人ちがいですよ”と。でもやはり気になって、実家に電話して確認したら、留守番の人が“本人らしいです”というので、あわてて東京に戻るために福岡空港に行ったんです。事故関係者は優先してくれてすぐ乗せてもらえました。
 東京に着いて真っ直ぐに事務所に行き、そこで待機しながら、身元確認のための手配を行うことになりました。関西の北原の友人の益田佳美さんのお兄さんが、宝塚時代に通った歯医者さんでしたから、歯型を取り寄せたり、現地にカルテのコピーを送ってもらったり、五本木の北原の部屋に警察のかたと入って指紋を採ったり。それでも遺体が見つかるまでは、絶対生きているよね、と事務所のみんなが信じていました」

 宝塚歌劇団では、当時、歌劇団の営業部長兼プロデューサーの橋本雅夫が早い段階で遭難を知った。

 「いちばん早く知ったのは僕だと思います。8月12日は、新人公演の前日でしたから、その用意で、夕方から歌劇団の事務所と隣の営業部を行ったり来たりしていたんです。そこへ池田銀行の広告担当から電話があって、“ファンのかたが電話をかけてこられた”と言うんです。“吉田由美子って名簿に出ているけど違いますか?と泣かれているんですが”と。それから劇団でも大騒ぎになりました」

 兄の雅彦は岩手の放送局にいた。

 「その夜は送別会があって、その会場にいたのですが、あとから来た報道の人間によって、7時16分ぐらいに第一報が入りました。“ジャンボがレーダーアウトした”と。でもジャンボが落ちるなんて例がなかったから、誤報か機器上のミスかと言っていたんですが、だんだん本当らしいということになり、報道にとんぼ帰りして、ラジオで特番を始めました。7時45分でした。テレビも8時前後には特番を始めました。

 僕も乗客名簿を読んでいたのですが、最初は300人くらいの名簿しかなくて、でもすでに坂本九さんの名はありました。まだ妹の名はなかったんですが、墜落の時点で“月曜だし、週末に東京で仕事をして帰阪する関西のタレントさんが乗っているんじゃないか”と、同僚と心配したりしていました。そのうち実家からの電話で由美子が乗ってたらしいと。“イヤだ!”と思い、頭のどこかで“ドラマみたいな展開だな”とも思いました。
 すぐ上司に話したら、社長車を手配してくれて、運転手2人と、僕のサポートに先輩を同行させてくれて、羽田に向かいました。車の電話で妹の部屋に何度もかけてみたのですが、やっぱり出ない。カーテレビを見ながら、知り合いの報道の人間に状況を聞いたり、短波を聞いたりしていました。羽田に着いてからも、両親とは会えずじまいでしたが、とにかく現地に向かうバスに乗りました」

  焦燥

 事故現場については情報が混乱していた。最初に長野県側と誤報されたため、両親たちはいったん長野県小海町までバスで運ばれてしまう。そこから再び群馬県側に向けてバスで移動、対策本部のある藤岡市には、昼頃にたどり着いた。藤岡の市民体育館が本部になっていて、家族たちは、いくつかの小・中学校の体育館に分かれて待機することになった。

 雅彦の乗ったバスは、走っている最中に群馬らしいと情報が入り、そのまま藤岡へ直行した。

 「バスの中で、朝方、短波で生存者がいるというのを聞いて、妹の生存を僕は信じていました。到着は昼過ぎで、関係者用の藤岡の体育館に行き、両親とはそこで顔を合わせました。由美子の同期で実家が長野の小島希恵(芸名・南郷希恵)さんと埼玉の青木玲子(芸名・文月玲)さんのご両親が、駆けつけてきてくれて母を励ましてくれて、ありがたかったです。

 朝からいろんなメディアが事故の情報を伝えはじめていて、テレビではNHKが、宝塚の北原遥子と顔写真を入れて報道していました。でも体育館にいても、現実じゃないみたいなんですよ。事故機に確かに乗ってたという証拠はない。大阪で待ってた人の話だけでしたから。遺体確認するまでリアリティがないし、信じない。死んだという事実を感じないままでいました。

 ただ、僕が藤岡に着いたとき父が涙を見せたんです。今まで見たことなかったから、これはやばいと思った。俺が両親をガードするしかないなと。事の重大性をズシンと感じたし、判断をしっかりしていかなくては、という決意のようなものがありました。

 2日目から、現場を仕切っている日航との交渉が始まりました。父もそれに向き合うことで気を取り直したので、いくぶんほっとしました」

 真夏の体育館で、ただ待つだけの家族たちの時間が始まった。体を休めるためにと義弟に用意された前橋のホテルでも、母はほとんど眠らないまま、朝になるのももどかしく体育館に戻り、ひたすら由美子に関する情報を待った。

 「真夏の体育館は暑いので廊下に出ると、窓から周囲の山々が見えるんです。地元のかたに上野村や御巣鷹の方角を聞いて、どのくらいあるのですかと聞くと、80キロありますと教えてくれました。東京から小田原まで、ちょうど80キロくらいですから、その遠さを思うと行くにも行けず、ただ毎日、その方角を眺めているばかりでした」

バックナンバー

「由美子へ・取材ノート」について

 「宝塚随一の美女」と称された。同期の黒木瞳と共に注目を集め、退団後は夏目雅子に続く美人女優としてデビュー。しかし御巣鷹の日航機墜落事故が彼女の人生を奪った――。これは、若くして逝った1人の女優北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづった記録である。


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