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宝塚プレシャス

由美子へ・取材ノート

第17章 由美子その死

(2007.7.31)
 由美子だという棺のふたを開けて、見せてもらいました。全身、白い布で巻かれていました。最初に手の布をとってもらいました。その手をひと目見ただけで、由美子だとわかりました。指が長く、女性にしては大きな手でした。爪の形は雅彦にそっくりでした。由美子の手そのものでした。色は真っ白で、見慣れたままの姿でした。  …
(「由美子へ」第3章・由美子その死)

 13日から遺体の確認作業は始まっていたが、由美子の生死はなかなか判明しなかった。体育館には遭難機の座席表が張り出されていて、遺体が見つかるとその座席が塗りつぶされていく。キャンセル待ちで乗った由美子の座席ナンバーは、予約者名簿には書かれていない。どこに座っていたのかもわからないまま、一家は座席表を前に焦燥感をかみしめる日々が続いた。

 「乗っていた場所によってはかなりひどい状態だと聞いていましたから、妹のことも覚悟していました。着いてから4日、5日と経っていくと、1組、2組と家族の遺体を発見して帰っていく人たちが出てきて。少しずつ遺族がいなくなっていくと、残されるものたちの焦りや寂しさが強くなっていくんです。そんな状態ですから、完全に近い遺体を連れて帰れる人は、本当に羨ましがられていました」

 16日になって、“確認できない遺体”が約100体ほど運び込まれた。各家庭から代表2人が出て確認に当たることになり、雅彦と母はバスで別の体育館まで出向くことになった。そこにはたくさんの柩が並んでいて、柩の上には、性別、年代、遺体のどの部分か、特徴などが書かれている。それを見て心当たりがあればその柩を開けてもらうのだが、そのほとんどが部分遺体と呼ばれる遺体の一部でしかなく、なかには炭化して、とうてい人間の体だったとは思えないものも納められていた。線香の煙と換気扇の音のなかで、2人は黙々と遺体を確認し続けたが、そこに由美子の姿を見ることはできなかった。

 由美子が見つかったのは6日目、17日の午後である。

 その日の昼ごろに、「所持品が見つかったので、市民体育館まで受け取りに来てください」という知らせが入り、家族は確かめに出かけて行った。たしかに見覚えのあるルイ・ヴィトンの財布が、3分の1だけ焼け焦げた状態で置いてあり、中には取ったばかりの運転免許証も入っていた。その品々を受け取り、母が受領証を書くことになり、其田則男から持たされた由美子の写真を机の上に置いたまま書類を書きこんでいると、通りかかった県警の捜索隊長が写真を見て、「この人なら女子高にあるよ」と声をかけてきた。

 「妹は前の日に体育館に運ばれてきて検死されたそうで、証明書がついていました。顔や手足は包帯でグルグルに巻かれていました。その包帯を外して顔を確認したのは母です。僕は見られなかった。でも爪の形で分かりました。爪は僕とそっくりだった」

 死因は脳挫傷と内臓破裂。発見が遅くなったのは、事故現場のなかでも奥に分け入った場所まで投げ出されたためで、そのことが幸いして、火災現場から遠かった由美子の遺体は、奇跡的といっていいほど損なわれずにすんだ。520人の遭難者のなかで完全遺体で戻ったのはわずか十数体、吉田由美子はそのなかの1人だった。

 生きていたら着替えが必要だからと取り寄せてあった赤いワンピースが、死装束の代わりに包帯で巻かれた遺体にかけられた。雅彦は一足先に横浜に発ち、両親が由美子に付き添って我が家へと向かった。車が家に着いたのは夜8時過ぎ。元気に手を振って出かけたあの朝から数えて6日目の無言の帰宅だった。

 「その晩は父の部屋に寝かせてやりました。すでに事務所のスタッフのかたたちや親戚が集まっていて、それから石立鉄男さんや宝塚の同期生が、次々に会いに来てくれました」

 一晩、我が家で眠った由美子の遺体は、18日の午後、西五反田の桐ケ谷斎場で荼毘に付された。母は火葬場で由美子の棺が扉の向こうに消えたとき、崩れるように倒れた。

 夜7時からが通夜で、宝塚の同期生や平沼高校の同級生など200人が訪れた。親友の黒木瞳は、月組の仲間に抱えられるようにして参列していた。

 告別式は翌19日午後0時半から、場所は同じ桐ケ谷斎場で、事故からちょうど1週間目だった。




当時の週刊誌の記事より

【サンケイスポーツ 8月20日朝刊の記事より】

【(前略)葬儀委員長は其田則男がつとめ、同じ所属事務所の俳優、石立鉄男、峰岸徹、市毛良枝をはじめ、樹木希林、世良公則ら芸能関係者、ファンなど約500人がつめかけた。祭壇中央に菊の花で囲まれた北原さんの美しい遺影が飾られ、その下に金色の布で覆われた遺骨が置かれた。約100本の供花の中には、入院中の夏目雅子の名もあった。夏目は同じ事務所の北原さんのことを「妹のように」(夏目)とても可愛がっていたという。

(中略)葬儀では、宝塚雪組同期生(第67期生)を代表して藤井京乃さんが弔辞を読み、続いてファン代表、斎藤和子さんが「ユミちゃん(北原さんの愛称)、雲の上のステージで、虹をバックに、星のスポットライトをあびて、大好きなお芝居をしてください」と涙ながらに語りかけると、父俊三さん(五三)、母公子さん(五一)、兄雅彦さん(二七)の遺族はたまらずハンカチを目にあてていた。

 北原さんにウリ二つの公子さんは「できることなら時計を逆戻りさせ、元気に手を振って家を出た十二日午前九時頃にしてほしい」と言葉少なに話した。】

 マネージャーの内藤陽子には、葬儀にまつわる忘れられない光景がある。

 「18日の早朝でした。前の晩からお宅に泊まり込んでいた私と其田さんは、お線香をあげようと思って由美ちゃんを寝かせてあるお部屋に行ったんです。そしたらお父さんが、由美ちゃんのご遺体に向かって正座して、静かに泣いていらしゃいました。私はそれまで、お父さんの涙を一切見ていなかったんです。あぁ、もう少し2人だけにしてあげればよかったなとすごく後悔しました。それ以降は、お父さんはまた涙を見せずに、淡々としていらっしゃいましたから。
 もう1つは19日のことです。桐ケ谷斎場では、日航機事故のご葬儀が3つ重なっていて、その1つは遭難されたスチュワーデスのかたのだったんです。それを知ったお父さんは、そちらにもお参りに行かれたんですよ。娘を亡くした気持ちは同じという思いで迷いなく行かれた。胸が熱くなりました」

 兄の雅彦も、葬儀の日に初めて泣いた。

 「僕が参ったのは、妹が『カサノバ'85』の歌をレッスンしているテープが流れたときです。聞いたとたん、張りつめていた気持ちが一気にほどけてしまって、ひざのハンケチの上に、涙がしずくではなく滝のように落ちていくのを、自分で見ていました。歌がけっこううまくなっていたから、ああ、少しはほめてやればよかったなと。けなしてばかりいましたからね」

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「由美子へ・取材ノート」について

 「宝塚随一の美女」と称された。同期の黒木瞳と共に注目を集め、退団後は夏目雅子に続く美人女優としてデビュー。しかし御巣鷹の日航機墜落事故が彼女の人生を奪った――。これは、若くして逝った1人の女優北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづった記録である。


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