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宝塚プレシャス

由美子へ・取材ノート

第18章 遺したもの

(2007.8.7)
 私たち遺族が初めて墜落現場を見ることができたのは事故の年の秋、1985(昭和60)年11月初めのことでした。その前、救出や遺体の収容作業が続いているときから、その場所へ行きたい、と私に限らず、遺族はどれだけ切望したかしれません。
 …
(「由美子へ」第4章・終焉の地)

  遺品

 由美子の遺品を引き取るために、母は何度か群馬県前橋の県警まで足を運んだ。

 「靴はとうとう見つかりませんでした。たぶん不時着にそなえて脱いでいたのでしょう。それからバッグもなかった。気に入っていつも使っていた白い大きなバッグが、部屋を探してみたらなかったので、それを持っていったのだと思います。おそらく焼けてしまったのでしょう、中身は出てきたのですが。化粧ポーチもありました。いつも髪をとめるカラーゴムまでちゃんと残っていました。大事にしていたミュシャの絵のコンパクトがありませんでした。時計も皮(のバンド)は見つかったのですが、本体はなかった。
 スケジュール帳は、私は見覚えがなかったのですが、中に市川森一さんの名刺があったので由美子のものと知りました」

 カルティエの茶色のスケジュール帳には、事故の時期の予定も書かれていた。

「8月12日 14時大阪
 8月13日 2時 木山事務所 5時半 東宝楽屋
 8月17日 ロサンゼルス」

山小屋のそばにある案内図
墓標の案内板。4Aが由美子の墓標のあるエリア

 12日は“大阪”とたしかに書かれている。どういういきさつで夕方の便になってしまったのだろう。
 13日は6時半から東京宝塚劇場で月組『二都物語』の新人公演が行われることになっていた。同期の涼風真世が主演し、これで退団する黒木瞳も、まだ新人公演の学年だったので、何役かで出演することになっていた。その激励に楽屋をたずねる予定だったのだろう。
 17日のロサンゼルス行きは其田や内藤に叱られたアメリカ行きの話だろうか、大きな×が付いて消されていた。
 スケジュール帳には、大阪から帰るはずの13日の航空券もはさまれていた。
 「8月13日 12時25分 伊丹発羽田行 JAL024便」

 自宅には弔問の客が続き、「地方公演から帰ってきたから」と、麻実れいが不意に現れたこともあった。雪組の仲間や、学生時代の友人なども、たびたび線香をあげに訪れた。

 仕事に戻った夫に代わり、母が弔問客との対応にあたったが、この時期から本当の身を裂くような痛みと悲しみが、母を襲いはじめた。

 「弔問のかたがいるときはなんとか平静でいられるのですが、事故が起きた夕刻あたりになると涙が自然にこぼれてくるんです。70才の母に甘えて、わめきながら泣いてばかりいました。でも夫とは、お互いになんとか泣き顔は見せないようにと、必死でがんばっていました」

 しばらく経って落ち着いてきた頃、母は“あの時”自分は何をしていたのだろうと、記憶をたどってみた。

 「8月12日のあの時刻、私は庭で草花に水やりをしていたんです。そんな時間に水やりなんかしたことないのに。その頃、事故機が迷走していたことを思うと、由美子に外に呼び出されたのでしょうね」

  その山へ

激突地点にある供養小屋。中に千羽鶴や供え物が飾られている。後姿は母親の公子さん
上野村にある慰霊の園。確認できなかった遺体百数十体がこの奥に葬られている。

 遺族が初めて墜落現場を見ることができたのは上空からで、事故の年の秋だった。10月24日に合同慰霊祭が東京で行われ、そのあとヘリコプターで花束を落とすために、現場まで日航が大型ヘリで運んでくれた。

 「夫と2人で乗って行きました。もう紅葉が始まっていたけれど、事故現場の地肌はえぐれたままでした。救出や遺体運搬のためにつくったヘリポートも、そのまま残っていました。でもそこに降りることはできなくて、花束を投げ落としただけで、旋回して帰ってきました」

 初めて2人が現場に登ったのは、事故の翌年のゴールデンウィークである。日航が世話役を出してくれ、現場まで道案内をしてくれた。当時の群馬県上野村の車道は舗装されていないデコボコ道ばかりで、土ボコリが舞い立ち、車は茶色に染まった。そのうえ車が入れる登山口が今よりずっと手前になっていて、そこから事故現場まで、徒歩で4時間以上かけて登っていくしかなかった。

 登山道とは名ばかりの獣道(けものみち)を、両親は往復10時間近くかけて登り下った。気の遠くなりそうな時間と距離である。「ただでさえ、気持ちが重いのにねえ」と、今は笑いながら母が語ってくれた。

激突地点に建てられた観音像。季節によって見返り峠からも見える。

 由美子が発見されたところは、激突地点から西南の方角で、斜面になっている場所である。機体は激突で3つに分かれたと言われているから、その勢いで飛ばされたのだろう。火事になった地点から100メートル以上離れていたため、きれいな遺体のままだった。
 その場所に両親は持ってきた花と線香を供え祈り、後ろ髪を引かれる思いを残しながら、また気の遠くなるような時間をかけて山を下った。

 次の年の8月3日に、上野村の慰霊の園で1周年の法要が執り行われた。その翌日の4日に、吉田夫妻は登山するつもりでいたが、台風が来ているということで登ることを許されず、8月12日にあらためて登山をした。

 「命日ということで、たくさんのマスコミが現場に殺到していました。夫と私は、陽のあるうちに下山しようと思ったのですが、墜落時刻までいてくださいと、マスコミのかたがたに頼まれて、他の遺族のかたたちとともに、それぞれの墓標の前でその時刻を迎えました。暮れてゆく山の上で、みんな口々に亡くなった人たちの名前を叫んでいました。私も夫も、その時の由美子の無念を思うと、ただ墓標に手を合わせるしかありませんでした」

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「由美子へ・取材ノート」について

 「宝塚随一の美女」と称された。同期の黒木瞳と共に注目を集め、退団後は夏目雅子に続く美人女優としてデビュー。しかし御巣鷹の日航機墜落事故が彼女の人生を奪った――。これは、若くして逝った1人の女優北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづった記録である。


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