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宝塚プレシャス

由美子へ・取材ノート

終章 御巣鷹の尾根

(2007.8.21)
 お父さんがこんなことを言います。「由美子が宝塚に入って、大きな役がついたり、テレビに出るようになると、遠くなっていった。目の前にいないし、どんどん実感がなくなっていった。それが、亡くなってからは、正直言って自分の手元に帰ってきたという感覚がある。そして、もうどこにも行くことがないんだから、いまのほうがむしろ近くなったような気がするなあ」と。  …
(「由美子へ」第4章・白ゆりの花咲くころに)

  23回忌

神流川に灯籠を流し、手を合わせる人たち=上野村で(朝日新聞紙面より)

 2007年8月12日、23回忌の夏はひときわ暑かった。

 東京も暑い夏だったが、群馬県上野村もかつてない猛暑のなかにあった。

 11日は灯籠(とうろう)流しの宵である。日中は油照りの暑さで、陽が落ちても、なかなか涼しさが戻ってこなかった。夕方から始まった神流川の河原での灯籠流しのセレモニーも、例年になく川風も止まったような蒸し暑さのなかで行われた。

 参加する遺族の数が毎年少なくなっているような思いを抱くのは、520の灯籠に、遺族や関係者がそれぞれ祈りの文字を書くときだ。何も書かれないままの灯籠が、いつまでもたくさん残っているのだ。

 河原に並べられた灯籠も、それが1つの命と思うと、せめて何か一言書かずにはいられなくて、書ける限り次々に祈りの言葉を書いていく。見回すと遺族の人たちが率先して、未記入の灯籠を手に取り、「安らかに」とか「忘れません」などの思いのこもった言葉を記している。520の命は遺族にとって、どの魂も決して無縁ではないのだ。

登山道で樋口俊子さんと筆者。暑い!(撮影・吉田俊三氏)

 12日朝、いつものように早朝からの登山に出発する。慰霊登山する人数も遺族たちが高齢になり減っていると伝えられているが、節目の年とあって、昨年よりも40人以上多い300人以上がこの日登ったという(次の日の新聞より)。

 登山口には8時前に到着、まだ登山者は少ない。それなのにすでに下山してくる人とすれ違う。「お疲れさまでした」「お気をつけて」、何気なく口にする一言が、下界で聞くときよりも身に沁みる。

 吉田家は23回忌の法要のため、両親の俊三さん・公子さん、兄の雅彦さん、公子さんの妹の樋口俊子さん、そして菩提寺の玉鳳寺のご住職と檀家のかた3人が加わり、私を含めると総勢9人の大人数である。足を悪くしてふもとの宿で待つ所属事務所の社長だった其田則男氏からは、花と菓子と祈りを託されたので、心は10人ということになる。

 登山は暑さの割にはきつくない。昨年の激しい朝の雨のあとのようなぬかるみはないし、木陰を選んで歩いていけば山の空気はさすがに清涼で、汗をかきつつもへたばらずに登っていける。
 だが、まもなく昇魂の碑にたどり着くというところで、1人の女性が横たわっているのに出会う。前夜にあまり眠れなかったせいで気持ちが悪くなった、と連れの女性が心配そうに説明してくれる。なにかできることはないかと考えているところへ、ちょうど上野村からの要請で見廻っている救急班のグループが通りかかり、手当を始めてくれた。地元のボランティアによって、慰霊登山者へのケアがされていることは本当にありがたいことだと思う。

 俊子さん、雅彦さんと私は、ご両親より一歩先に由美ちゃんの墓碑にたどり着いた。吉田夫妻は毎回、記者たちに途中でつかまって取材をされたり、テレビカメラにコメントを求められたりという状態で登ってくるので、どうしても到着が遅くなってしまう。

 まだ時間は9時すぎというのに、高く昇った太陽が、痛いほどの陽ざしを降り注いでくる。由美ちゃんの墓碑は尾根の南向きの斜面に建てられているので、よけい陽ざしが強い。

23回忌の法要(撮影・吉田俊三氏)

 先着したからには草むしりだけでもすませておこうと、俊子さんと2人で雑草を抜き始める。直射日光の下で草むしりを続けていると、汗が滝のようにしたたり落ちる。それが終了する頃に、ご両親と玉鳳寺の住職、新聞記者の人たちなども到着して、斜面を削って作られた狭い墓所は時ならぬ人口過密状態になる。花やお供物を飾り、檀家のかたが運んできた焼香台が置かれ、しめやかに23回忌の法要が執り行われた。

 時を同じくして、ボランティアのアコーディオン隊が登ってきて、ご両親がリクエストしておいた「すみれの花咲く頃」「千の風になって」を演奏してくれる。俊三さんが好きな「千の風になって」を、由美ちゃんの墓碑の前で聞いていると、抑えようと思っても涙が溢れてくる。由美ちゃんが風になって、この山々の上空を自由に吹き渡っているのが、本当に見えるような気がしてならないのだ。

  娘のいる場所

 吉田夫妻は、この慰霊登山をすでに60数回も繰り返している。事故の翌年の5月に初めて登り、その年の8月12日にまた登った。それ以来、5月、8月、秋の10月か11月にもにも欠かさず登る。年3回の慰霊登山は、今では2人の暮らしに欠かせない大切な行事になっている。

12日の夕方、慰霊の園に点火された蝋燭と由美ちゃんの名前(撮影・吉田俊三氏)

 娘の墓碑が待っているからとはいえ、1639メートルの高さの山である。しかも最初の頃はほとんど道とはいえない登山道を4時間かけて登ったのだ。そんな厳しい慰霊登山は、22年の間に、夫妻を精神的にも身体的にも強くした。

 「由美子が亡くなった頃は夫も私も 50代初めだったけど、だんだん年は取りますし、足腰も衰えていくでしょう。でも、ここまで来られなくなることが一番つらいので、とにかく身体を鍛えようと思ったんです。ここ数年は、ふたりとも定期的にいろいろな山に登山をするようになって、富士山も登ったし、お父さんはヒマラヤへも登ったことがあるんですよ。脚力をつけるために、私もジムでエアロバイクを1時間こいだりします。目的があるとトレーニングも張り合いがあるものですね」 

 22年前の初めての慰霊登山では、疲労のため日航の社員におぶってもらったこともあったという俊三さんが、今では花々の苗や1リットルの水のペットボトルを何本もかついで、軽々と登ってくる。

 だが、そんな思いで登る御巣鷹の尾根なのに、父にとっては娘がここに眠っている感覚はないという。

 「息をひきとった場所ではあるけれど、由美子はここにはいないと思っています。あの子は私たちのそばにいる。どこにでもついてきている。宝塚に入り、テレビやコマーシャルにどんどん出演したり、有名になるにつれて、嬉しい反面少しずつ娘が遠くなっていくような、どこか寂しい気持ちがありました。それが亡くなってからは、私たちの手元に帰ってきた。もうどこにも行くことはないんです。この御巣鷹に登るのも一緒に登っている感覚だし、一緒に下っている。私たちといつも一緒なんです」

 母は逆に、娘に距離を感じたことは一度もなかったという。

 「母親の自信なんでしょうか、由美子が遠くに行ってしまったと思ったことなんて、一度もありませんでした。今も、私は由美子の使っていた部屋に寝て、いつもあの子を生活のなかで感じながら暮らしています。衣替えの季節になると由美子の洋服を虫干ししなくてはと思ったり、服もアクセサリーも、いつでも使える状態にしておかないと、あの子に怒られそうな気がするんです。
 不意に寂しくなるのは、やはり季節の変わりめで、春なら、宝塚音楽学校の休みに一緒に花の道を歩いたっけとか、暑い夏には花火を見に行ったことなどを思い出します。そしてあの日、暑い陽ざしのなか、手を振って出かけていった由美子の姿も。
 たぶんこれからも生きている限り、あの後ろ姿は思い出し続けると思います。それでいいんです、由美子のことを忘れたくないから。誰かにあの子のことを話すのは、本当に楽しいんですよ。由美子のことはいくらでもしゃべりたいし、たくさんの人に知ってほしい。吉田由美子がいたことを、そして北原遥子という女優がいたことを、忘れないでいてほしいんです」

1961年
4月23日、名古屋市千種区で、吉田俊三・公子夫妻の長女として誕生。由美子と名付けられる。
1979年
4月、宝塚音楽学校入学。
1981年
3月、宝塚音楽学校卒業。宝塚歌劇団入団。芸名は北原遥子。
1984年
4月、宝塚歌劇団退団。
7月 渡米。夏目雅子とともにNYに滞在。
1985年
8月12日 日本航空機墜落事故にて死去。享年24歳。
北原遥子。「由美子へ」の表紙より

  後書き

 北原遥子という美しい人のことを書きたいと思ったのは、もう20年以上前のことである。

 日航機事故の次の年、1986年の春、私は演劇雑誌の立ち上げに参加した。その雑誌は、文字通り演劇の専門誌だったから、もし北原遥子が生きていれば、今すぐ舞台女優として取材できたのにと、わずか半年前の事故を思い口惜しさをかみしめたものだった。

 北原遥子とは一度も会ったことがない。だが客席からいつもその美しい姿を、群舞やロケットの中に探したものだった。といっても出世の早かった彼女は、いやでも目に付く場面や少人数の場面に入れられるようになり、いつのまにか、探さなくても目に飛び込んでくるようになった。

 宝塚大劇場に今ほど気軽に足を運ばなかった暮らしのなかで、あちらでしか上演していないバウホールの『恋のトリコロール』を観に行ったりしたのだから、本当に彼女の舞台が観たかったのだと思う。それだけに、突然の退団、そして遭難死という生涯の閉じられかたが残念で、心のどこかで彼女への思いが未完のまま生きていた。だから演劇誌を立ち上げたあとも、いつか機会があったら彼女について書いてみたいという気持ちを抱えていた。

 事故の日についても、私には忘れられない記憶がある。

 1985年8月12日は、当時夫だった人やその友人たちと夏休みを楽しんで帰京する日だった。南伊豆を午後に出発、西伊豆スカイラインを走っていたとき、真正面に血の色のような富士を見た。まだ夕焼けには間がある時間なのに、赤富士とそれを取り巻く赤紫色の雲のまがまがしさに、思わず息をのんだ。「変な色の富士山だね」と車中の人々と会話しながら、やがて三島に下り、東名を東京に向かって走り続けた。そこでまたあるものを見てしまった。都内に入るために渋滞が続き、のろのろ運転している車のなかで、目の前を巨大な航空機の影が低空飛行で横切っていったのだ。
 横田基地から飛びたつ軍用機とは形も色も違う、たしかに旅客機の影だった。羽田空港も遠くないから、珍しいことではないのだが、地上数百メートルの低空を飛んでいるのに、その飛行機は爆音が聞こえなかったのが不思議で、どこか不安な思いとともに鮮烈に頭に焼きついた。

 その夜、帰宅してテレビをつけ、事故を知ったとき、あの赤い富士と低空でよぎっていった旅客機の影がよみがえり足が震えた。そしてあらゆるメディアから溢れかえる情報のなかで、あの美しい人、北原遥子も遭難したことを知った。

★        ★        ★

 だが、書きたい、いつか書かなくてはという思いとはうらはらに、編集・取材に追われる日々は、あっという間に歳月を押し流していく。気がつけば19年目、来年は事故から20年目という2004年になっていた。不思議なことに、この年に入ってからいくつかの偶然が重なって、北原遥子と縁のある人たちが身近に現れ始めた。そしてその縁をたどって、吉田夫妻に、初めてお会いすることになった。

 ご両親は、無名の一編集者の「とにかく書いてみたいんです」という漠然とした訴えに、「書いてください。いくらでも由美子のことはお話ししますから」と正面から向き合ってくれた。「話すのがつらいこともあるのでは?」と、どこかで躊躇する私に「いちばんつらいのは由美子が忘れられていくことなんです」とかえって励ますように答えてくれた。

 そこからは、書いてみたいという思いより、書かなければならないという思いに動かされた。吉田夫妻がリストにまとめてくれた関係者を訪ね、聞き、書き、そのたびに彼女がいかに愛されていたか、いかに必死で生きていたかを改めて知る毎日だった。

 そうして書きつづった「取材ノート」は、吉田夫妻に初めに約束した20年目の出版は果たせなかったが、それをもとにした公子さんの「由美子へ」が21年目に誕生し、22年目の今年はこの宝塚プレシャスでの連載という形で「取材ノート」そのものも陽の目を見る機会に恵まれた。北原遥子、そして吉田由美子のことを、少しでもたくさんの人に知ってもらいたいという、あの日のご両親の願いに、いくらかは応えられたことに今は少し安堵している。そして知れば知るほど、北原遥子、由美ちゃんという人との絆は深くなっていく。これからもあの事故や彼女のことを、なんらかの形で書き続ける作業は、私のなかで続けていくつもりだ。

 この「取材ノート」を書き上げ、連載するにあたって、たくさんのかたがたにお世話になりました。文中で名前をあげさせていただいたかたのほかに、最初にご両親に私をつないでくださった小島希恵さん、月影瞳さん、有永美奈子さん。執筆過程で助言と励ましをいただいた集英社の真下玲さん、演劇ぶっく社の坂口真人さん。「由美子へ」でご尽力いただいた扶桑社の田中亨さん、スーパーサウルスさん。「取材ノート」掲載や事故資料でお力をいただいた朝日新聞社のかたがた。

 そして何よりも、読むのがつらいような内容を、細かく目を通してチェックしてくださり、連載を楽しみに毎回読んでくださった吉田俊三さん、公子さん、雅彦さん、樋口俊子さん。本当にありがとうございました。これからも、由美ちゃんと歩くあなたがたの日々を、後ろからついていきます。

 最後に、ここまでご愛読いただいた皆さまに、心からお礼を申し上げます。

(榊原和子)

バックナンバー

「由美子へ・取材ノート」について

 「宝塚随一の美女」と称された。同期の黒木瞳と共に注目を集め、退団後は夏目雅子に続く美人女優としてデビュー。しかし御巣鷹の日航機墜落事故が彼女の人生を奪った――。これは、若くして逝った1人の女優北原遥子(本名・吉田由美子)の生涯を詳細な資料と証言でつづった記録である。


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