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政治・国際
朝日新聞社

ニッポンとコリア 百年の明日(8) 戦争と分断、「北の家族よ」

WEB新書発売:2010年7月23日
朝日新聞

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60年、会えないのか 3カ国、兄弟生き別れ

 封筒から便箋(びんせん)を取り出すと、見覚えのある朝鮮語の文字が並んでいた。弟の筆跡だった。
 「生きていたんだ」
 朝鮮戦争で日本に逃れて10年。大阪に暮らす歴史家、姜在彦(カンジェオン)さん(83)のもとに1960年、北朝鮮から一通の手紙が届いた。二つ年下の弟、在奎(ジェギュ)さんからだった。ソウル大で化学などを学んでいたが、戦争が始まって間もなく行方が分からなくなった。


 50年6月25日に戦争が始まった時、姜さんは韓国中部の清州(チョンジュ)の高校で英語やドイツ語を教えていた。同じ高校の生徒だった五つ下の末弟、在倫(ジェユン)さんを故郷の済州島に先に帰したが、開戦後すぐに北朝鮮軍に占領されたソウルの在奎さんとは連絡がとれないままだった。避難民の波に押されるように南へ逃げた。
 たどり着いた釜山(プサン)は避難民であふれ、男は次々と軍隊へと引っ張られた。「銃を手にして同じ民族と殺し合いたくない」。父親のすすめもあり、日本への避難を決めた。船で渡った対馬に身を潜め、大阪にたどりついたのはその年の暮れだった。
 53年の休戦後、北朝鮮を支持する在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)の活動家になった。社会主義を掲げる国づくりにひかれた。59年、祖国建設に役立とうと在日が北朝鮮に渡る運動が始まり、大阪にいた親類も「帰国船」で海を越えた。在奎さんから便りが届いたのは、そのしばらく後だった。
 北朝鮮に帰国した親類と偶然に会い、兄が大阪で生きていると知ったこと。朝鮮戦争の時、学生集会の決議に従って北朝鮮軍に加わったこと。一時は韓国南岸の海沿いまで下り、故郷の済州島の方の海を眺めながら両親に会いたいと思ったこと。生き別れた後のことがつづられていた。だが、今どこに住み、どんな暮らしをしているかは書かれていなかった。
 一方、韓国に残った末弟の在倫さんは朝鮮戦争で韓国軍に入り、北緯38度線に近い激戦地にもいた。のちに陸軍士官学校や大学の教員になった。休戦後、韓国では「反共」の独裁・軍事政権が長く続いた。末弟には手紙を送らず、電話もかけなかった。途中で組織を離れたとはいえ「私の活動歴が迷惑をかけるかもしれない」と考えた。
 本格的な文民政権が誕生した93年、韓国誌の記事に衝撃を受けた。姜さんが朝鮮総連系だとの理由で、在倫さんを士官学校から追放するよう圧力がかけられた、とあった。
 韓国に用事で帰ると、時に末弟と顔を合わせるが、ともに昔のことには触れない。「弟は口にしないが、私にはすまないとの思いがある」と姜さん。今もじかには連絡せず、10年、入院して手術を受けたことも米国にいる妹から聞いた。
 北朝鮮の在奎さんからはその後、何度か便りが届いたが、指導者をたたえる文言が並び、暮らしぶりは分からないままだ。09年、病気らしいと人づてに聞いたのが最後の消息だ・・・

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