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朝日新聞社

朝日新聞が報じた 1985年日航機墜落

WEB新書発売:2010年8月11日
朝日新聞

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 日本航空123便ジャンボ機の「行方不明」を伝える第一報が、朝日新聞東京本社4階、記事入力部の漢字キーボードから打ち出されたのは、8月12日午後7時25分だった。9行、114字。直ちにコンピューターに入力され、大阪、西部、名古屋各本社にも届いた。パンチャーは、1分間に85字ほどを打ち出すから、パンチに1分強。逆算すると、その原稿が出稿元の社会部を離れたのは、7時22分ごろ、ということになる。「墜落」から26分後である。それは、新聞社にとってもそれから数十日間続く、熱く、つらいドラマの幕開けだった。想像を絶する520人の膨大な死者。奇跡的な4人の生存者。混乱する情報。事実にたどりつく厳しさを、これほど私たちに教えた事件は、そう多くない。その最初の24時間を特集した。

〈1〉ジャンボ機が消えた
 各部の記者が走る 急ぎ紙面を組み替え
〈2〉現場はどこだ
 正式発表は「長野」、だがヘリは「群馬だ」
〈3〉家族にあたれ
 憶する心むち打ち、名簿班が悲運を追跡
〈4〉御巣鷹山に登れ
 『指令』に沢をはう 農家の人が食べ物を
〈5〉生存者がいた
 「遺体」の指がピクリ 奇跡の姿、夢中で撮影
〈6〉4人か8人か
 ダブって計算… 間一髪、見出し直す


〈1〉ジャンボ機が消えた
 各部の記者が走る 急ぎ紙面を組み替え


 7時13分、5階編集局の各所に配置されている時事通信のファクスから、至急報を知らせる「プ、プー」という音とともに、フラッシュが飛び込んできた。簡潔に1行。「日航ジャンボ機がレーダーから消える」とあった。ほぼ同時に、少なくとも4カ所で、それは目撃された。社会部、電波報道部、写真部、そして外報部。
 社会部デスク佐藤悠は、この日早朝に出勤した。勤務は夕刊サブデスク。当番デスクの富永久雄を後方支援するのが、その日の役割だった。この夏、佐藤は社会面連載企画「もう1つの戦後――40年を経た夏に」を担当していた。12回目が掲載される日だった。午後、その続き2本を出稿し終わって、佐藤はさすがに疲れた。机のわきの時事ファクスが至急報を鳴らしたのも、あまり気に止めていなかった。何気なく、ファクスから吐き出される紙片の文字を見た。血が逆流するのを感じた。「おい、大変だぞ」。思わず叫んでいた。
 時事ファクスのある机から、その日の当番デスクが座る六角形をした新聞社特有の机までは、ほんの3メートルと離れていない。朝刊デスク渥美保は、佐藤の叫び声を聞いて、反射的に目の前の電話をとった。編集局真ん中にある整理部との直通電話である。「ジャンボ機が、レーダーから消えた」。叫ぶような渥美の声を受けたのは、整理部社会面担当デスク木島大弥太だった。
 朝刊は、東京本社の場合、8―14版(10版はない)まで6つの紙面を順次作ることになっている。夕刊がない地域の統合版(早版とも呼ぶ)が8、9版と11版。そして、夕刊とセットになっているセット版が12、13、14版。
 原稿の締め切りが最も早い朝刊8版の大刷り(レイアウトに従って組んだ1ページ紙面の試刷り)は、すでにほぼ出来上がっていた。1面のトップは経済部が出稿した「三光汽船きょう更生法申請」、その下に来春の国公立大入試2次試験。左肩には政治部出稿の連載企画「崩れる1%枠 防衛力増強の周辺」の2回目が掲載されていた。
 この日朝刊紙面の実務上の全責任を負う立場にあったのは、整理部長代理、広岩邦彦だった。各部から集まる記事のニュース価値を判断し、見出しをつけて紙面のレイアウトをまとめる整理部、その部長代理は4人。うち3人が交代で総合面(1―3面)デスクにつく。広岩は迷った。8版に待ったをかけるか、それとも「追っかけ」(出来上がった紙面を印刷工程に回し=降版という=、直後に別の紙面を作り直すこと)をとるか。「不明だけじゃわからないな」と思った。しかし、もし事故でもなんでもなかったら、8版は遅れてしまう。それは印刷から新聞の発送、配達までを無用の混乱に陥らせることになる。広岩は叫んだ。「降版待った」「いや、すぐ降版して追っかけを取れ」
 大阪、西部、名古屋各本社の編集局も東京からの一報で騒然とし始めていた。・・・

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