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朝日新聞社

海峡を越えたプレーボール 日韓高校野球秘史

WEB新書発売:2010年8月13日
朝日新聞

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 日韓併合から2010年で100年を迎えた。この間、両国民が愛した野球は、多彩な交流の歴史を残した。戦前の甲子園出場、日本プロ野球での活躍、五輪協議化に向けた連携、韓国プロ野球の設立。連綿と続く韓国と野球の交流の歴史を振り返る。


甲子園の夢、奪った戦争


 ソウル西郊の港湾都市・仁川の中心街に、開学114年の仁川高校はある。73年前、「甲子園に出場した最後の韓国人選手を送り出した」と誇る仁川商業のいまの姿だ。
 1915年に大阪府の豊中球場で始まった全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高校野球選手権大会)。その5年前から日本の植民地支配下にあった朝鮮半島では、大会2年目の16年に出場を求める動きがあったが、「競技水準が低い」とご破算に。釜山商業(現・開成高校)が「朝鮮代表」として初出場を果たしたのは、第7回大会の21年。熱戦の舞台が甲子園に移る3年前のことだった。
 ただ、選手の多くは朝鮮半島に渡った日本人が占めた。41年に戦況悪化で大会が中止になるまで、「朝鮮代表」として甲子園に出場したのは延べ20チーム。そのうち釜山商業など実に13チームが、全員日本人選手だった。
 23年の第9回大会。最初で最後の「全員韓国人選手」という徽文高普が代表になった。翌24年、やはり韓国人選手だけの培材高普が全員日本人選手の京城中と予選大会の決勝で対戦する。
 しかし、培材高普は途中で試合を放棄した。「日本人に有利な審判に耐えかねた」という記録が残っている。
 仁川商業は違った。日韓双方の選手が力を合わせるチームだった。同校は元々韓国人が通う学校だったが、日本人が通う仁川南商業と合併、両国の生徒が共に学んだ。野球部は日本人監督の指導でメキメキ力をつけたという。
 36年、同校は甲子園に初出場を果たす。チームには韓国人選手が3人。そのうち2人が甲子園で試合に出場した。その3人は他界しているが、主力だった金善雄左翼手は戦後、47年から72年まで同校の監督を務め、甲子園の思い出を後輩たちに伝えた。
 同校野球部OBの金在銀さん(77)も、その後輩の一人だ。「カプチャウォン(甲子園)は広い。大観衆が詰めかけた。緊張するばかりだった」。そんな話を聞き、甲子園にあこがれた。


 仁川商業が出場時、甲子園に駆けつけられる仁川市民はいなかった。日本に住んでいた同校OBが球場に集まり、グラウンドに躍る「JINSEN」の胸文字に一生懸命に声援を送ったという。
 大会後、金善雄選手は他の韓国人選手と同様、日本のプロ野球界入りを目指した。金在銀さんは「当時は皆そうだった。甲子園で活躍すれば、日本のプロに入れると夢見ていた」と振り返る。
 だが、甲子園大会が中止に追い込まれたように、朝鮮半島の人々も戦争に巻き込まれた・・・

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