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朝日新聞社

「島」に基地を押しつけるな 「本土の盾」空襲絶えず

WEB新書発売:2010年8月27日
朝日新聞

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「本土の盾」、空襲絶えず 普天間移設「また犠牲」

 鹿児島県・徳之島空港から約1キロ内陸に入った天城町浅間地区。草に覆われた空き地に刺すような日差しが降り注いでいた。
 近くに住む川村千江さん(83)は1944年10月、ここで見た光景を忘れられない。「焼けただれた手を合わせて、『お母さーん!』て叫んでね。それから『天皇陛下バンザーイ!』って」



 この年の3月に完成した浅間陸軍飛行場の補助滑走路に1機の日本軍飛行機が、敵機の襲撃を受け不時着し、爆発・炎上した。飛行場の事務員として働いていた当時17歳の川村さんが救護班と駆けつけると、服も皮膚も真っ黒こげの1人の若い兵士が操縦席にいた。助け出された兵士は、滑走路近くで救護班に自分の体を東の方角に向けてくれるよう頼み、叫んだ後、絶命した。
 太平洋戦争末期、南方の植民地が次々と陥落する中、44年7月、陸軍は1万人以上の独立混成64旅団を奄美群島に送り込み、各島に小中隊を配備。1500メートルの滑走路がある徳之島には司令部が置かれ、沖縄本島に次ぐ「本土防衛の盾」とされた。川村さんは飛行場事務員として軍に協力。機材や爆薬の書類を本部に届ける日々を送った。
 45年3月ごろからは、徳之島でも沖縄上陸を狙う米軍の空襲が激しくなってきた。特に飛行場は標的になった。ある日、飛行場内にいた川村さんの頭上に4機編隊の米軍戦闘機が突っ込んできた。「バリバリバリ」。激しい機銃掃射の後、爆撃で地面が地震のように揺れた。橋の下に逃げ込んでいたが、体は飛んできた土砂で覆われた。生きている心地がしなかった。
 空襲は昼夜関係なく続いた。赤ちゃんのおしめを替えていた女性の腕に爆弾の破片が貫通し、赤ちゃんが犠牲になった。爆撃で首が無くなった死体も見た。島民は家を離れ、がけ下の岩を掘った防空壕(ごう)に隠れ住んだ。死と隣り合わせの毎日。「明日は生きられるだろうか」。そればかり考えて過ごした。戦争による徳之島の死者・行方不明者は267人との記録が残る。
 終戦から65年。川村さんは今でも夏が来るたび、戦時中のことを思い出すが、今年はいつにも増して強く意識してしまう。島が米軍普天間飛行場(沖縄県)の移設先に浮上したからだ。
 「基地ができるということは、戦争に巻き込まれるということ。私はいつ死んでもいいけれど、あんな思いを孫やひ孫にさせては、死んでも死にきれない」
    ◇
 徳之島南東のなごみの岬に、ひっそりと慰霊碑が立つ。「疎開船武洲(ぶしゅう)丸遭難者の碑」。政野富夫さん(82)=徳之島町=は、碑を見て思った。「戦争とは、なんと理不尽なものなのか」と。
 故郷を離れ鹿児島市の旧制中学校に通っていた16歳の9月末。武洲丸に乗っていた母親、兄、姉が帰らぬ人となったことを、のちに生き残った乗客の家族から聞かされた。
 徳之島の陸軍は44年、兵士の食糧確保と戦闘時の足手まといを理由に、女性や子どもに疎開命令を出した。政野さんの集落を含む島民154人は奄美大島に渡り、9月24日、県本土に向かう武洲丸に乗り込んだ。武洲丸は翌25日夜、トカラ列島・諏訪之瀬島北西沖で魚雷を受け沈没。148人が死んだ。
 しかし・・・

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