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朝日新聞社

日航機事故、記録に残らぬ献身 地元村民たちの24時間

WEB新書発売:2010年9月3日
朝日新聞

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 1985年8月12日、日航ジャンボ機が群馬県上野村の山中に墜落したとき、おおぜいの村の消防団員と猟友会員が駆け付けた。こうした活動は村民のボランティアのような協力で、公的な記録は残っていない。墜落が日没後だったことや、沢1本間違えればたどりつけない複雑な地形のため、地上からの接近は容易でなかった。惨事から25年たち、関係者からあらためて聞き取り、捜索にかかわった人たちの1日を再現する。


夜明け待ち、現場めざす

 1985年6月、上野村長の黒沢丈夫(たけお)(71)の妻(63)は、夫の6選を控え、よくあたるといわれる僧侶に占ってもらった。僧侶は「あなたのだんなさんは、今年、世界的な事件に遭遇する」と語ったという。黒沢はその話を聞き流し、忘れていた。
    ◇
 同年8月12日。黒沢は東京の建設省(当時)に国道整備の陳情に出向いた。午後7時過ぎ、帰宅すると、孫たちが見ていたテレビニュースの速報の字幕が見えた。
 「羽田発大阪行きの日航機 レーダーから消える」

猟友会に協力要請

 同じころ、村猟友会副会長の仲沢太郎(49)、会員の久保誠一(49)もテレビニュースに注目していた。
 2人はそれぞれ長野県境まで車を走らせた。長野県の御座山(おぐらやま)北斜面が有力な墜落地点として報道されたため、県境のぶどう峠に立てば、御座山の様子がわかると思った。
 ぶどう峠には様子を見に来た人が複数いた。だが異常は見られなかった。久保は「御座山じゃない」と思い、自宅に引き返した。
 同9時ごろ、村猟友会長の藤村輔二郎(すけじろう)=故人=から招集がかかった。
 村の山懐はふかい。地形を知りつくす猟友会は遭難があると、警察から協力を求められる。
 仲沢は三十数人の機動隊員を案内するため、村役場を出発した。県警車両で三岐まで入り、ぶどう峠に行くグループと分かれ、本谷(神流川上流)に向かった。

村長へ深夜の電話

 「どうやら長野県ではない」――長野県警がそう見始めたころ、群馬県警本部長の河村一男=故人=から黒沢の自宅に電話が入った。河村の著書では、午後11時25分と記されている。「群馬側から1千人を超える部隊を入山させる。ご助力願いたい」。黒沢は、長女に「あす朝5時に役場に行くので車で送ってくれ」と言って床に就いた。
 村企画財政課係長の神田強平(36)=現村長=は出張中だった。大阪・ミナミで配られていた新聞号外に目を見張った。
 見出しに有力な墜落地点として「群馬の山中」の文字が躍っていた。埼玉、長野県境付近ならば、上野村だと直感した。
 村の木工製品の売り込みのため、夜遅くまで卸問屋と交渉し、食事の後、ホテルに戻るところだった。神田は運転手の村銘木工芸センター職員に「あす朝3時半に飛び出そう」と伝えた。
 猟友会の仲沢は、県警車両で本谷沿いの砂利道の終点まで来た。機動隊副隊長が「山に入る」と言うのを押しとどめた。
 闇夜の行軍は2次遭難を引き起こす恐れがある。山の斜面に横たわり、ぎりぎりとする思いで夜明けを待った。
 大阪の神田らはラジオで続報を聞きながら、4トントラックで未明の高速道路を飛ばした。中央道を須玉インターチェンジで降り、野辺山高原をへて村に入ろうとしたが、国道や県道の3カ所が通行止めになっていた。
 仲沢と機動隊は午前4時ごろ、歩き始めた。「空が心なしか明るくなったような気がしたころだった」と仲沢は振り返る。
 同5時、黒沢は、村長室に入るとすぐにテレビをつけた。報道機関のヘリコプターが撮影した墜落現場が映されていた。
 「あれは本谷だ」
 黒沢は電話で、小学校の同級生だった林業の男性に確認した。
 「テレビを見たか」
 「見た。あれはスゲノ沢だ」

全消防団員に招集

 上野村の全消防団員約160人は自宅待機が命じられていた。同6時・・・

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