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特別版
朝日新聞社

ウイルスとの闘いは続く エイズ治療の最前線

WEB新書発売:2010年9月6日
朝日新聞

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(序)「これだ」初のエイズ薬を作った日本人:2009年
(1)エイズ新薬、知恵比べ続く 耐性ウイルス・副作用との闘い:2009年
(2)エイズワクチン、開発仕切り直し:2008年
(3)エイズ 一日の薬、16錠→1錠:2008年
(4)エイズ新薬が命を救う 「死の病」から「つきあう病」へ 患者増でも死亡減:2007年
(巻末)「命をつなぐ」から、グエン・クオック・カーン/ベトナム


「これだ」初のエイズ薬を作った日本人

 満屋裕明(みつやひろあき)(58)は、研究員として留学中の米国立保健研究所(NIH)で1984年、上司に言われた。「エイズの薬を作ってみないか」。エイズウイルスが発見されて1年足らず。治療法はなく、死者が続出していた。
 白血病を研究していた満屋にとって、全く新しい研究の領域である。実験中に感染すると、死ぬかも知れない。「怖くなかったと言えばウソになる。でも、医者なんだからやるしかないな、という感じ。蛮勇だったかもしれませんね」。満屋は翌日「イエス」と答えた。
 同じ実験室を使う同僚や助手は、激しく反発した。「妊娠中の私に、そんなウイルスを近づけないで」「絶対嫌だ。ここで実験するなら、私は辞める」
 みんなが嫌なら、1人でやる。満屋は腹を決めたが、実験室を締め出されてしまった。
 途方に暮れ、NIHの別の部署でエイズの基礎研究をしていたロバート・ギャロ(71)に、実験室が空いている夜間だけ使わせてもらった。毎晩、道具をかごに詰め、歩いて10分ほど離れたギャロの実験室に運んで研究を続けた。
 エイズウイルスは、人間の免疫をつかさどるT細胞を殺す。感染しても細胞を生き延びさせられる化学物質を見つければ、治療薬になるはずだ。満屋の武器は、ウイルスが標的にするT細胞の培養技術だった。
 ウイルスの増殖を妨げる化合物を求め、十数種類を試した。研究を始めて1年余りが過ぎたある日、ウイルスと化合物を注入した試験管の中の細胞が、全部生き残っていた。「これだ!」。心が震えた。
 これが、87年に登場した世界初の抗エイズ薬「AZT」になる。その後、さらに二つの化合物でも効果を確認し、世界初から3番目までの薬開発につながった。金、銀、銅を独り占めにした。
     ◇
 岡慎一(おかしんいち)(51)はAZTが日本で使えるようになった直後の88年、治療のコツを学ぶためNIHに留学した。「日本から来た」と話すと必ず「ミツヤを知っているか」と聞かれた。
 岡は帰国後、東大医科学研究所でAZTを使った治療を始める。症状がどんどん改善した。「魔法の薬でした」
 しかし、奇妙なことに気付いた。半年もすると、病状がまた悪化する。2年後には、みな亡くなってしまう。耐性ウイルスだった。AZTだけ使っていると、これをかいくぐるウイルスがすぐ現れる。岡は言う。「エイズと闘うには、新しい薬を開発し続けなくてはならない宿命があるのです」
     ◇
 満屋は97年、母校熊本大の教授に就いた。NIHの部長職と掛け持ちだった。06年、4番目の新薬を世に送る。耐性ウイルスに効果が高い。満屋の弟子で熊本大病院医師の康博(こうやすひろ)(35)が開発に加わった。「この薬で何百万人も助かるでしょう。医師としてこれほど幸せなことはありません」。は開発技術をさらに磨くため、5月から米ハーバード大に留学する。
 現在、抗エイズ薬は20種類ほどある。この中から効き方が違う3種の薬を選んで同時にのむのが標準治療だ。日本では、感染者が増え続けているが、亡くなる人は1%以下と激減した。
 谷欣克(たによしかつ)(47)は03年、エイズと診断された。「10年前だったら、助からなかったよ」。明るく話しかける医師の言葉に、谷は酸素マスクの下で、気持ちがすうっと軽くなった。「ああそうか、助けてもらえるんだ」
 今、3種類の薬をのみながら、仕事をし、絵本の点訳ボランティアにいそしむ日々を過ごしている。エイズはもはや、死病ではなく、「つき合っていく病気」に変わった。
 不意打ちをかけたり、姿を変えて逆襲したり。ウイルスや細菌との闘いは一筋縄ではいかない。エイズ、インフルエンザ、O(オー)157。感染症ウオーズはこれからも続く。
(中村通子/2009年3月13日 朝日新聞「ニッポン人脈記 感染症ウオーズ:7」)
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