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スポーツ
朝日新聞社

茨城の知将三人衆〜木内、橋本、持丸 2001年センバツ同時出場

初出:2001年3月13日〜3月18日、4月8日、2008年4月3日など
WEB新書発売:2011年3月23日
朝日新聞

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 第83回選抜高校野球大会は、出場32校のうち初出場が11校。初陣組の一校、茨城・水城高を率いるのは、かつて古豪・水戸商で指導し、元阪神の井川慶投手らも育てた橋本実。10年前の73回大会、橋本の水戸商は、木内幸男が指揮官を務めていた常総学院、持丸修一が指導していた藤代とともに、茨城県初の3校そろっての出場を果たした。県内でしのぎを削り、高め合ってきた名将たち。互いを強く意識しあった3人が同時出場にたどりついた軌跡から、高校野球指導者たちの戦いに迫る。(敬称略)

 ※2001年3月13日〜3月18日、4月8日などの朝日新聞茨城版に掲載された記事を、当時の内容のまま再録しました。

◇時の重圧
◇内なる壁
◇環境づくり
◇伝統への挑戦
◇新しい時代
◇3校の活躍振り返って/第73回選抜
◇元水戸商野球部監督・橋本実氏が水城高野球部監督に就任
◇水城、夏に続き甲子園/第83回選抜


時の重圧

【2001年3月13日掲載】


 夕暮れのJR藤代駅前広場。甲子園初出場を決めた藤代の選手たちが、ユニホーム姿で跳び上がり、互いに抱き合って喜びを爆発させた。
 「子供たちの信頼に、こたえることができた」
 一月三十一日、地元の商工会が催してくれた祝賀セレモニーで、夢を現実にし、集まった市民に囲まれて喜ぶ生徒たちを見ながら、監督の持丸修一(五二)は、うれしさより、むしろ安ど感に浸っていた。
 選手たちもさることながら、それ以上に甲子園を意識していたのは、持丸だった。竜ケ崎一を率いて一九九〇年と九一年に、連続で夏の全国高校野球選手権大会で甲子園に出場した。この春、藤代野球部を任されてから丸四年を迎える。どうしても甲子園に行きたかった。「四年」という時間が、持丸に重圧をかけていた。
 藤代とともに選抜に出場する水戸商の橋本実(五三)も、就任四年目の九二年春に監督として初めて甲子園出場を果たした。常総学院の木内幸男(六九)は、全国制覇をした取手二から移って三年目の春に、常総学院を初めて甲子園に導いていた。
 水戸商は九一年秋、関東大会に出場したとき、ほかの県の選手から「水戸商って関東なんだ」と言われるほど、甲子園から遠ざかっていた。橋本は八八年の就任当初から、「三年から五年で古豪を復活させる」と、自分に言い聞かせていた。伝統校を任された橋本には、周囲を納得させる結果が必要だった。そして、三十二年ぶりに古豪・水戸商を復活させた。
 木内も新天地に移ったとき、甲子園出場の期限を意識した。「三年から五年で甲子園に行かないと、選手が集まってこなくなる」
 実績を作るため、木内は初めから選抜を狙った。夏と違い、必ずしも県内で優勝できなくても出場のチャンスはあるからだ。
 勝負をかけた八六年秋の関東大会で四強入りを逃したが、翌年春、選抜出場が決まっていた千葉県の高校が不祥事で辞退し、「棚ぼた」で常総学院が初出場することになった。余勢をかって、この年の夏は甲子園準優勝まで駆け上がった。
 その夏、茨城大会の決勝で持丸と木内が顔を合わせた。持丸はこの試合が、今でも鮮烈に記憶に残っているという。
 六回表、無死二塁のピンチで、持丸は木内が犠打でくると読んで、「絶対守備」の陣形を取った。二塁走者を絶対に三塁に進めない守備だ。ところが、打者は犠打の構えから強攻策に転じた。追加点を許し、甲子園が離れていった。
 持丸は木内の野球を知っていると思っていた。木内が裏をかいてくることも分かっていた。それでも強攻策は読めなかった。だが、それよりも驚いたのは、常総学院の選手たちが木内の野球を理解していることだった。あの場面で、たたきつける打撃を意識して、それを実行した。監督と選手の考えが通い合っているあかしだった。
 「就任三年で、監督の考えがチームに浸透するのか……」。持丸はこのとき、そう驚いた記憶がある。
 選手たちが指導者の野球に対する考え方を理解し、指導者がそれを結果に結びつけるまでの時間。新天地での「三−五年」には、こうした意味がある。あの決勝戦以来、持丸はそれを強く意識してきたが、藤代の監督になって三年が過ぎても、甲子園には届いていなかった。
 「今年、甲子園に行けなかったら、監督を辞めよう」と考えたこともあった。甲子園がすべてではないが、周りは「甲子園経験監督」として自分を見ている。自分を慕い、甲子園を目指すために入学してきた生徒たちがいる。
 重圧の中で四年目につかんだ甲子園だった・・・

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