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朝日新聞社

おまえのエラーは覚悟しとる 箕島率いた名将・尾藤公の青春

初出:2011年2月20日〜3月23日
WEB新書発売:2011年3月25日
朝日新聞

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「スマイル」、球史刻む

 「野球王国 和歌山」。戦後、不動のものとしたのが尾藤公(ただし)元監督(68)の率いた箕島高校だった。1979年には、今も破られていない公立高校唯一の春夏連覇を達成。特に同年夏の3回戦、星稜(石川)との延長18回の激闘は「高校野球史上最高の試合」と語り継がれる。甲子園での戦績35勝10敗、春夏4度の優勝。その尾藤元監督が今、がんと闘い、懸命に生きている。これまで教え子たちとどう向き合い、どう戦って球史に残る時代を築いたのか。半生をたどっていく。


23歳で箕島の監督に就任/「懸命にプレー、ミスも出る」

 1966年春、23歳だった尾藤さんは3年間勤めた銀行を辞め、母校・箕島の硬式野球部監督に就任。新入部員には、後に西武ライオンズのエース・監督になる東尾修さん(60)がいた。入学前、京都の名門高校を志望していた東尾さんに「一緒に箕島で甲子園を目指さんか」と声をかけていた。

いざ甲子園へ
 68年春の選抜で、3年生になった東尾投手を擁して甲子園に初出場。高知商や広陵(広島)に勝って準決勝に進むが、優勝した大宮工(埼玉)に敗退し4強にとどまった。尾藤さんは「東尾たちの力で、優勝が狙えるチームだった。足りなかったのは監督の私の経験でした」と振り返る。
 2年後の70年春には、後に近鉄バファローズなどでプレーする島本講平さん(58)らの活躍で選抜初優勝を果たした。
 甲子園のベンチで選手を迎える時、送り出す時、白い歯を出してニコッと笑った。笑顔はテレビに映り、「尾藤スマイル」として広まった。
 その誕生は、77年春の選抜1回戦で名古屋電気と対戦した時。序盤に内野手がエラーした。気まずそうにベンチに戻った選手に、尾藤さんは「おまえのエラーは覚悟しとる。三つぐらい織り込み済みや」と声をかけた。その時、横にいた控え選手が「監督が笑顔でそんなん言うてくれたら、僕らやりやすいですよ」とポツリ。それから尾藤さんは笑顔を心がけた。だが、作り笑いのようになってうまくいかない。夜、自宅で鏡を見て笑顔の練習をしたという。
 「まだ戦後の空気が残る時代。試合中に歯を見せるなんて許されない雰囲気があった。でも、選手が一生懸命プレーしていてもミスは出る。それが高校野球。だから笑顔で受け入れるんです」

春夏連覇
 星稜に勝ったその大会で、箕島は決勝で名将・蔦(つた)文也監督(故人)率いる池田(徳島)を4―3で破り優勝。公立高校として史上初の春夏連覇を果たした。インタビューで、母に向けて「産んでくれてありがとう」と言った言葉を、茂子さん(90)はきのうのことのように覚えている。「いい選手たちに恵まれたから。みんな厳しい練習によくついてきてくれて」と茂子さん。
 尾藤さんとともに甲子園初出場を果たした東尾さんは、母校の活躍をテレビで見守った。「監督はだんだん大きくなっていった。スマイルという心のつかみ方、バント戦法、試合の状況判断まで、一つ一つの経験で成長されているのを感じた」

若手育成
 95年夏、腰痛で思うようにノックバットを振れなくなった尾藤さんは、監督を引退。その後は、テレビ、ラジオでの野球解説や日本高野連の仕事に取り組む。2008年に始まった若手指導者育成のための「甲子園塾」では、塾長として、各地から集まった若い監督を指導した。脇村春夫・前日本高野連会長(79)は「公立高校で春夏連覇するのはたいへんなことですから。尾藤さんの存在が、若い監督の大きな励みになるんです」と話す。
 09年春、箕島は18年ぶりに選抜に出場。尾藤さんは初めて甲子園のアルプススタンドに入って応援、校歌を歌った。「初出場した時以来の感激でした。老いも若きも、みんなで一緒に応援する熱気を感じ、涙が出ました。勝利の喜びも、負けた悔しさも共有できる。これが高校野球なんだって」
 有田市の望月良男市長(38)は箕島の野球部出身。内野手として尾藤監督のノックを受けた。「そりゃあ緊張しましたよ。でも、練習が終わると、厳しかった顔が急にやさしくなる。選手をひきつけるのもうまい、大きい人です」と振り返る。市長としての交渉ごとで、会話に困ったらすぐ尾藤さんの話をするという。「箕島の尾藤監督を知らない人はいません。有田市の誇りですから」

闘病
 7年ほど前から、闘う相手はがんになった。04年4月、血尿がひどくなり前立腺がんが発覚。手術で前立腺を摘出したが、膀胱(ぼうこう)へも転移していたため、1カ月後には10時間半に及ぶ摘出手術をした。
 07年12月、今度は胃の近くの食道にがんが見つかった。12時間の手術で食道と胃の大部分を切除。その後は快復していたが、09年4月、今度は骨盤への転移が見つかった。
 手術が難しい場所で、放射線治療を続けた。がん細胞は抑えられたと聞いたが、治療後、骨盤周辺と右足が痛み、右足が動かなくなっていった。強い痛みはおさまることなく、尾藤さんは鎮痛剤などを投与しながら闘っている。
 丸一日ベッドの上で過ごす日々。だが、「試合中のピンチのような、与えられた試練。耐えていけることは耐える。支えてくれる人たちがいますから」と笑顔で語る。そして、寄り添う妻のさとみさん(63)について「26歳で結婚してから、金もなくすぐ息子ができたのに、家を顧みることもなく、苦労ばかりかけてきた。彼女が一番大変やった。ずうーーっと感謝してます」と話した。

〈びとう・ただし〉 1942年10月、有田市生まれ。箕島第一小、箕島中を経て58年に県立箕島高校に入学し、強打の捕手として活躍。近畿大中退後、和歌山相互銀行に3年間勤務し、66年春から箕島高校硬式野球部監督に。72年春から2年半監督を一時離れるが、95年夏まで箕島一筋で監督を務める。在任中、春8回、夏6回甲子園に出場、春は70年、77年、79年に優勝、夏は79年に優勝している。公立高校で春夏連覇を達成したのは同校だけ。現在、日本高野連の常任理事、技術・振興委員長で、高校野球指導者を育てる甲子園塾の塾長。


対星稜戦、18回サヨナラ

 箕島の名勝負には延長戦が多い。選抜初優勝した70年春の決勝では北陽(大阪)と延長12回、全国制覇した79年春選抜では準決勝でPL学園(同)と延長10回。そして「史上最高の試合」と語り継がれる79年夏の選手権3回戦の星稜(石川)戦。延長18回でサヨナラ勝ちするが、「得意のバントも封じられ、とにかく苦しい試合だった」と尾藤さん。

 その試合で強く印象に残っているのが1点を追う延長12回裏の攻撃。2死走者なしで敗戦インタビューのことを考えていたら、打席に向かっていた嶋田宗彦選手(現・阪神タイガース2軍コーチ)がベンチ前に戻り、大声で聞いてきた。「監督、ホームラン狙っていいですか」。気迫に圧倒され、「よし狙え」と答えた。そしてレフトへ同点本塁打。
 「冷静な嶋田があんなことを言ったのは不思議だった。後になって、監督までしゅんとなったベンチのムードを変えようとしたのに気づいた」
 延長を勝ち抜いたことについて尾藤さんは「選手たちは明るさも粘り強さも持っていた。それは、彼らが自分で考えてプレーができたから。私はヒントを与えただけ。あれせえこれせえと管理せず、突き放すやり方だったので、選手たちにそういう力がついたのでしょう」と言う。
 星稜の監督だった山下智茂さん(65)は「あの試合は私の人生の宝」といい、尾藤さんのことを「最初はライバルだったが、兄貴になり、おやじになった。僕の野球観を変えてくれた大切な人」・・・

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