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朝日新聞社

「高知商、高知、明徳義塾」 3強に歴史あり 〜高知球人伝

初出:2008年6月17日〜22日
WEB新書発売:2011年7月21日
朝日新聞

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 高知商、高知、明徳義塾。3校の夏の甲子園出場回数をあわせると、県勢全体の出場回数の8割以上を占める。野球王国・高知を代表する強豪校の歴史をたどり見えてきた、監督たち、選手たちそれぞれの「物語」とは?

※2008年6月17日〜22日の朝日新聞高知県版に掲載された記事を、当時の内容のまま再録しました。


基礎作りに粉骨砕身

 今年、創部90周年を迎えた高知商野球部。春夏合わせて甲子園に36回出場し59勝(優勝1回、準優勝3回)という輝かしい成績の背景には、名物監督たちの姿があった。
 終戦直後の47年夏。監督に就任した松田昇(故人)は、同校監督時代の16年間で春夏合わせて12回の甲子園出場を果たし「伝統高知商」の基礎を作った。
 「いつもたばこをくわえて、樫(かし)の木の棒きれのようなノックバットを振り回す。こわい『オヤジ』が来たな」と思った。48年、高知商初の甲子園となる春の選抜大会に出場した中城精郎(77)は松田の印象を語る。戦後間もない混乱期。甲子園には、両手にバットとグラブ、背中には7升(約10キロ)の米をリュックに背負って乗り込んだ。
 そんな苦しい中でも、松田の練習は厳しかった。炎天下の練習でも水を飲むことを禁止されたが、不思議と反発する者はいなかった。「(当時県内の野球をリードしていた)城東中(現追手前)に勝てたのはオヤジがいたから。だれもが認めるところです」と中城は断言する。
    ◇
 松田が高知商の監督として最後の甲子園となった61年の選手権に、捕手として出場したのが、のちに監督に就任する谷脇一夫(64)だ。「松田のオヤジの神髄はデータ野球だった」とふり返る。松田は甲子園出場が決まると、控え選手数人に割り当て練習を見学させ、投手の球速や打者のクセなどのデータを集めさせた。
 試合前には巨大な模造紙を壁にはり付け、相手選手の名前の横に流し打ちが得意なことを示す「△」、引っ張りが得意なことを示す「×」などを書き込んでいった。試合中、その紙はベンチに張られていたという。「たばこの火で穴だらけのズボンが『トレードマーク』の外見とは裏腹に、あの緻密(ちみつ)さ。当時プロ野球もそこまで徹底はしてなかったんじゃないか」
 谷脇は、75年から18年間高知商の監督を務め、明徳義塾(当時は明徳)の監督になった松田とは、82年春の甲子園に同時出場を果たした。「オヤジより早く帰るわけにはいかん」と意気込んだといい、両校ともに1勝を挙げ甲子園を後にした。
    ◇
 松浦徹(69)は谷脇が監督になる年まで、6年間監督を務めた。在任中、春夏合わせて4回の甲子園出場を果たしたが、その練習環境は伝統校とはほど遠いものだった。監督になった70年、高知市大谷への校舎移転に伴い、野球部専用グラウンドを一時失った。学校の校庭は石がむき出しで、練習には使えず、学校近くの空き地などで練習をしなければならなかった。
 だが、松浦はこれらのピンチを見越し、監督就任前のコーチ時代に手をうっていたという。新校舎近くに自宅を建てる時、裏山との間に余分に土地を買い、屋根を付け電灯をともし、漁網のフェンスを張った。「ボーナスをつぎ込んだ即席の『室内練習場』だった」と松浦は笑う。
 100人余りの部員にとっては、室内練習場が「ホームグラウンド」の一つになった。2カ所でティーバッティングをするのが精いっぱいだったが、代わる代わる選手が集まった。「蚊に刺されながらも朝は6時前から、夜は日付が変わるまで。帰れと言っても聞かなかった」
 「カンカン」と深夜まで続く音にも近所からの苦情は一度もなかったという。「練習環境は最低、あるのは・・・

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