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政治・国際
朝日新聞社

核燃料サイクルを 中曽根が推進した本当の狙い

初出:2011年7月17日〜7月21日
WEB新書発売:2011年8月5日
朝日新聞

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 政界の階段を駆け上るにつれ、中曽根康弘・元首相は原発推進でも絶大な影響力を振るっていく。原子炉技術も原子力行政の制度も当初は米国からの借り物だったが、「自立した国家」を掲げるには原発を主体的に導入したとみせる必要があった。

◇原子力、米を追って/平和利用論を持ち込む
◇大衆の懐柔に奔走
◇カネで推進、転換点
◇安全論議避け大勝
◇平和利用、潜む核武装論


原子力、米を追って/平和利用論を持ち込む

 米国の原爆投下で敗戦を受け入れた日本は、今日の「原発国家」に至る道を米国に付き従って歩いた。その先に、最悪の原発事故があった。菅政権は米国人の専門家を首相官邸に招き入れ、対応策を練り上げた。日本が頼ったのは、やはり米国だった。

*「長期的国策を」
 原発国家・日本を振り返るに欠かせない中曽根康弘(93)の政治人生は、米国抜きには語れない。
 米大統領アイゼンハワーが国連総会で「アトムズ・フォー・ピース(原子力の平和利用)」を唱えたのは1953年。ソ連が水爆実験に成功し、米国は慌てていた。原発を積極的に輸出して経済支援することで米国の「核の傘」を広げる世界戦略への転換だった。
 衆院当選4回、35歳だった中曽根はアイゼンハワーに魅せられた。「原子力は20世紀最大の発見。平和利用できなければ日本は永久に4等国に甘んじると思った」と著書やインタビューで繰り返している。

 この年、中曽根はハーバード大学の国際セミナーに招かれた。主催はのちの国務長官キッシンジャー。22カ国から45人が集まった。
 その後、中曽根はサンフランシスコに寄り、カリフォルニア大バークリー校の原子力研究者、嵯峨根遼吉に出会う。そこで最先端の原子力技術に触れた。「長期的な国策を確立しろ」と説かれ、「日本もボヤボヤしてはいられないと痛感した」と述懐している。
 吉田茂が講和条約に調印し、日本が独立を回復して2年。軽武装・経済優先の吉田は、憲法改正や再軍備を唱える中曽根の目に「対米従属」と映った。
 一方で米国から期待されることを喜んでもいた。中曽根は96年の著書で自らを招請した米国の狙いについて「吉田的なものにこのまま日本が流れていってはいけない。新しい政治家を育てなければと考えたんだと思う」と分析し、吉田的政治への対抗心をみせた。
 対米従属を嫌いながらもどこかで米国に認められたい。戦後日本の「二面性」にもがく姿がそこにある。

*「キノコ雲見た」
 「原発」にこだわる原点は「原爆」のキノコ雲を見たことだ――中曽根はのちに何度も公言している。
 45年8月6日朝。中曽根は海軍軍人として広島から150キロの四国・高松にいた。「西の空にものすごい大きな入道雲がもくもくと上がるのが見えた」「この時私は、次の時代が原子力の時代になると直感した」
 その「原点」を裏付ける材料は乏しい。高松で約600人の戦争体験談を集めた喜田清(78)は「キノコ雲を見た人に会ったことはない」。市にも記録は残っていない。
 54年3月に提出された日本初の原子力予算も、野党改進党の予算委理事だった中曽根が主導したと言われる。中曽根は国会で原子炉調査費2億3500万円の積算根拠を問われ、「濃縮ウランはウラニウム235だから」と爆笑を誘った。少数与党の吉田政権が修正要求を丸のみして予算は成立。中曽根は「原子力の重要性を考え、断固として邁進(まいしん)した」と胸を張った。
 だが、実は中曽根は中心人物ではなかった。原子力予算の構想は、直前にあった改進党秋田県連大会から帰京の車中で、TDK創始者の斎藤憲三や、のちに法相となる稲葉修らが描いたものだった。中曽根はそこにいなかった。
 「自分がやったみたいなことばかり言ってるが、うまいことしたんじゃないか」。原子力行政の重鎮である島村武久は、歴史検証を目的に官僚らの証言を集めた「島村研究会」で中曽根をそう評している。
 政界の階段を駆け上るにつれ、中曽根は原発推進でも絶大な影響力を振るっていく。原子炉技術も原子力行政の制度も当初は米国からの借り物だったが、「自立した国家」を掲げるには原発を主体的に導入したとみせる必要があった。いつしか、日本社会は自力で原子力を制御できると過信した。私たちがそれに気づくのは、初の原子力予算から57年後の3月11日である・・・

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