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朝日新聞社

東日本大震災と井上ひさしさん

初出:2011年9月1日〜9月8日
WEB新書発売:2011年11月18日
朝日新聞

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 東日本大震災の発生から間もなく半年。昨春亡くなった川西町出身の作家井上ひさしさんは、天国から未曽有の震災をどう見ているだろう。震災後の日本のあり方について、何を語るだろう。そんな思いに駆られ、井上さんと縁が深かった被災地を歩き、井上さんの作品に触れ、井上さんの言葉に背中を押される人たちを訪ねた。

◇心癒やした釜石
◇作品が縁 大槌に夢
◇命向き合うケア
◇二つの「核」に異議
◇水と土 再生へ一歩
◇住民が復興動かす


心癒やした釜石/「いきいき生きる」希望歌う

 あの日、高さ9・3メートルの大津波に襲われた岩手県釜石市。4畳ほどの店が37軒連なっていた呑(の)ん兵衛横丁は、全壊した。
 「残っているのは赤いビール箱だけね」。市内に住む井上ひさしさんの義姉淑子(よしこ)さん(74)は思い出の場所を指さし、ぽつりと言った。井上さんの母マスさんがかつて飲み屋を構え、「ます子」の看板を掲げた横丁だ。「ひさしさんがカツ丼目あてによく行っていた『広島屋』も流されちゃった」


 井上さんは仙台一高を卒業した1953年、東京の上智大に進んだ。だが東北弁への劣等感や慣れない都会暮らしなどから吃音(きつおん)になり、経済的な事情もあって3カ月で休学。マスさんがいた釜石で2年半をすごした。半自伝的小説「花石物語」で、製鉄所を中心にした重工業と漁業で栄えていた当時の釜石をこう表現している。
 〈商店街の人工照明の明るさは銀座に、人出は渋谷に、そして外国人の数は横浜に、充分に対抗できると思われた〉
 井上さんはマスさんの商売を手伝いながら、地元の図書館や国立釜石療養所に勤務。映画館や芝居に通い詰め、図書館では黄表紙などの江戸文学や海外の推理小説を読みふけった。いつしか吃音は治っていたという。

 この夏、井上さんの妻ユリさん(58)は神奈川県鎌倉市の自宅で「花石物語」の校正に追われた。新装文庫版が2日に復刊される。「この物語を読むと、釜石の当時の活気が伝わってきます。そして、挫折した青年を見守る大人たちがとてもおおらかなんです。ひさしさんは釜石での生活で心を癒やし、作家になる決意を固めていきました」
 上智大に復学した井上さんは浅草芸人らが出演する「フランス座」の座付き作家になり、放送台本も書き始める。25歳の時にマスさんに送った手紙では、〈劇作家の卵たちには辛(つら)い、つれない世の中です。といって小説も書けません。ですから、少々、辛くとも良い芝居を書くほかありませんので一生ケン命やっています〉と前向きだ。
 それからも釜石には何度も戻った。88年には釜石南高校で講演。生徒らに「人生に悩みがあったら本にぶつかってほしい。本は必ず答えてくれる」と読書を勧めた。91年にマスさんが亡くなった後も、この土地への愛着は変わらなかった。
 震災による市内の死者・行方不明者は1103人(11年8月22日)。港の岸壁のそばにあった井上さんとマスさんが暮らした長屋も津波にさらわれた。
 丘にあり被災を免れた市立釜石小学校に、井上さんが9年前に作詞した校歌がある。
 加藤孔子(こうこ)校長(53)によると、体育館や校舎が避難所になり、一時は約600人が寒さと恐怖に震えながら身を寄せた。震災から10日後、年配の女性が加藤校長に声をかけた。「釜小の校歌、いいですね。〈いきいき生きる〉。いまの私たちにぴったりです。この避難所を出るときに、みんなで歌えたらな」。翌朝からラジオ体操に続いて、校歌が流れるようになった。
 6年生の金沢亨哉(なおや)君(12)は〈星を目あてに まっすぐ生きる〉という歌詞が好きだ。「星は震災があっても消えなかった。あの夜も、すごくきれいだったんだよ。前に進んでいく感じがする」。同級生の長瀬明大(あきひろ)君(11)は〈手と手をつないで しっかり生きる〉という言葉を避難生活と重ねる。「一生懸命生きる。そのためにみんなで助け合ったんだ」
 11年4月5日、半月余り遅れた卒業式があった。♪いきいき生きる――。卒業生と在校生、そして避難していた人たちの歌声が、体育館いっぱいに広がった・・・

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