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社会・メディア
朝日新聞社

原発とメディア〔1〕 「平和利用」への道(上)

初出:2011年10月3日〜10月28日
WEB新書発売:2011年12月16日
朝日新聞

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 原子力を戦争に使う核兵器は否定するが、「平和利用」としての原子力は受け入れる。こうした使い分けをしながら、日本社会は戦後歩んできた。敗戦から復興への道のりのなかで、新聞などのメディアは原発をどう報じ、どう論じてきたのか。2011年10月から40回に渡って朝日新聞夕刊で連載された「原発とメディア 『平和利用』への道」の1〜19回分を収録。

◇元科学部長の悔恨
◇原爆が落ちた日
◇嵯峨根遼吉への手紙
◇2、3週間後の原爆死
◇「放射能で苦しむ者は皆無」
◇載らなくなった被爆写真
◇「原子力時代」の到来
◇死刑になってもよい
◇放射線の影響を過小評価
◇原爆使用宣言、批判せず
◇原子力研究開始に反対論
◇中曽根議員、訪米
◇中曽根の回想に事実誤認
◇急浮上した原子力予算
◇原子炉予算を削除せよ
◇ポケットに「死の灰」
◇恐ろしくとも踏み出せ
◇原子炉はいらない
◇日本に原発を


元科学部長の悔恨

 そのとき、高津真也(89)は、横浜市内の自宅で台所に立っていた。病妻(84)の昼食を1時間ほどそばで見守ったあと、茶わんやコップを洗っていた。
 2011年3月11日午後2時46分、大地震発生。
 高津は妻とともに食卓の下に伏せた。
 その後、テレビが連日、東京電力福島第一原発を映し出した。地震と津波に襲われて電源を失った原発は、核燃料の溶融と水素爆発を起こして制御不能となった。
 高津は、若き日に聞いた物理学者、湯川秀樹の言葉を思い起こしていた。
 高津が朝日新聞社に入社したのは1950(昭和25)年秋。「文章を書くのが好き」で、大阪工業大学助教授(応用力学)から記者に転じた。大阪本社社会部に配属され、阪大、京大などの研究室を訪ねて科学ニュースを追った。
 取材を通じて高津は、記者嫌いで知られた湯川の信頼を得た。湯川は、記事にしないことを念押ししたうえで、こう話した。
 「原子力発電は感心しません。放射能の怖さをもっと認識してもらわないと。平和利用、平和利用と言うが、そんなに生やさしいものではありません」
 新聞、雑誌が原子力の「平和利用」による明るい未来像を描き出していた時期だった。高津も原子力に期待を寄せ、57年には「(核)融合反応の平和利用」と題する論文を社内の研究誌に発表した。安全性に不安がないではなかったが、異論を唱える雰囲気はなかった。
 64年3月から約2年、朝日新聞の科学部長を務めた高津は今、悔恨をこめて語る。
 「原子力の安全性の問題を、もっと紙面で取り上げるべきでした」
 高津の著書「科学と現代社会」(81年)の巻頭に英物理学者バナールの次の言葉が引かれている。
 「幻想をできるだけ排除することだ。未来は、あらゆる望みや願いを託するのに、あつらえむきの場だが、科学的予測においては、そういう願望は極めて人をあざむきやすい道案内である」
 新聞などのメディアは原発をどう報じ、どう論じてきたのか。安全神話の形成にどうかかわったのか。その道のりを振り返る。


原爆が落ちた日

 1945(昭和20)年8月6日午前8時15分、広島上空で原子爆弾が爆発した。
 朝日新聞(東京本社版)は翌7日、次のように報じた。
 「六日七時五十分頃B29二機は広島市に侵入、焼夷(しょうい)弾爆弾をもつて同市付近を攻撃、このため同市付近に若干の損害を蒙(こうむ)つた模様である(大阪)」
 わずか5行の記事だった。
 広島の地元紙、中国新聞は、社屋が焼けて新聞が発行できなくなった。社員が「口伝隊」を編成し、「メガホンを片手に、声をからし、トラックの上からニュースを流した」(「中国新聞八十年史」)。
 8月9日午前11時2分、長崎に原爆が投下された。ニューヨーク・タイムズの科学記者ウィリアム・ローレンスは、従軍記者としてただ一人、上空から取材した。
 紫色の火柱が、3千メートルの高さに達した。「それは(略)新しい種類の生き物だつた」というローレンスの談話を米陸軍省が発表した(9月11日付朝日新聞)。
 この日、熊本市南部の川尻町に住む中学1年生、木村繁は、母に呼ばれて家の外に出た。目の前に「みごとな入道雲」が立ちのぼっていた。「夕焼けみたいな、美しい色どり」だった。
 「なんだろか、あら。ただの雲じゃなかごたるよ」
 のちに朝日新聞科学部長を務める木村は著書「アトム記者世界道中記」(65年)で、そう回想した。
 長崎のきのこ雲は、時間とともに東へ移動し、9日午後2時には熊本の西方約30キロの雲仙岳付近を通過した。熊本からきのこ雲を見たという証言は、ほかにも複数ある(上田穣一「激動の夏 熊本」)。
 後年、ローレンスは、原子力の「平和利用」を賛美し、木村は、日本の原子力開発を現場で取材した。
 45年8月9日午後、長崎市の北東約20キロ、諫早郊外のたんぼで、米軍がパラシュートをつけて投下した爆風観測用の装置が回収された。その装置に一通の鉛筆書きの手紙が貼り付けられていた。
 「サガネ教授へ」
 手紙は英語でそう書き出されていた・・・

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