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社会・メディア
朝日新聞社

穏やかな生活を奪われて 震災後を生きる

初出:2011年12月24日〜12月31日
WEB新書発売:2012年1月13日
朝日新聞

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 震災の後、被災地に入った記者たちは数え切れないほどの家族と出会いました。穏やかな生活を奪われた年の終わりに、再び家族のもとを訪ねました。朝日新聞社会面の連載「年の瀬に」から。

◇「おうちに帰ろう」
◇ありのまま、君と生きる
◇また笑い合える場所に
◇おっかねえ、でも信じる
◇ふる里なくなったんだ
◇青い田んぼを見せたい
◇痛み忘れてほしくない


「おうちに帰ろう」/流されても父は言った

〈中国出身の高校生〉
 午前6時25分。朝もやのなか、廃虚と化した宮城県南三陸町のJR志津川駅前の空き地に1台のバスが滑り込んだ。津波で流失したJR気仙沼線の代替バスは、約40キロ離れた気仙沼市の高校に通う生徒たちでいっぱいだ。


 気仙沼高校3年の西城国琳(こくりん)さん(19)は席に座るなり、小論文の練習に取りかかった。自宅は流され、仮設住宅暮らし。片道約2時間の通学時間は、貴重な受験勉強の時間だ。
 「小論文って何書けば良いですか」。隣の席に座った私に、国琳さんは聞いた。記者だから論文は得意だと思われたのかもしれない。「君の家族のことを書いてみたら」と言うと、うん、と彼女はうなずいた。
    ◇
 私が国琳さんと出会ったのは、震災4カ月後の2011年7月だった。朝日新聞が取材拠点を置く観光ホテルが、勉強部屋を持てない仮設住宅の子どもたちのために20畳の客室を「自習室」として開放していた。毎晩遅くまで勉強していたのが彼女だった。話しかけると、日本語が少したどたどしい。彼女は中国籍だった。
 中国・大連で生まれ育った。中国人の両親は離婚。南三陸町の水産加工工場に働きに来た母親の明紅(ミンホン)さん(45)が町職員だった康一さん(62)と結婚したのを機に、6年前、町へやってきた。
 13歳の少女にとって、日本人の新しい父親は、すぐにはなじめない存在だった。覚えたばかりの日本語で勇気を出して語りかけても、康一さんからは何度も聞き返される。「母のことは好きでも、私はそうじゃないのかも」と疑った。近くて遠い存在――。あの日までそんな風に考えていた。
    ◇
 11年3月11日は気仙沼港近くのカラオケボックスにいた。防災無線に追われるように高台にある高校に逃げ、たき火に当たりながら校庭で夜を明かした。母は日本語が不得手で、康一さんはがんを患っている。離れてしまった両親のことが心配で眠れなかった。
 3日目の朝、康一さんが知人に借りた軽トラックで高校に迎えに来たとき、国琳さんは「お父ちゃん」と思わず叫んで飛び出した。泣き出しそうな娘に、康一さんは言った。
 「おうちに帰ろう」
 国琳さんは、その言葉の意味がうまく理解できなかった。海沿いの自宅は津波で流されちゃったんでしょう? おうちなんて、もうないじゃない。
 康一さんは繰り返した。
 「おうちに帰ろう」
 2人が軽トラックで向かったのは、明紅さんが待っている知人の家だった。国琳さんは、そのときの気持ちを私に話してくれた。
 「日本語で『おうち』って、建物じゃないんだ、家族が待っている場所なんだ、って初めて知ったんですよ・・・

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