「わたくしたちはゆかしい歴史と原子の火に生きる東海の村民です」と村民憲章にうたう東海村。55年前にこの地で日本の原子力開発が産声を上げて以降、我々の国土には54基の原発が立ち並んだ。そして、多くの人が故郷を追われ、放射性物質におびえる日々を迎えた。「3・11」の起点に何があったのか。朝日新聞茨城版の連載「原子のムラ 東海村に火灯る(全30回)」の前編、第1回〜15回までを収録。
第1章 55年前、希望の産声
第2章 村長の決断
第3章 村議会も賛成
第4章 村民への啓蒙活動
第5章 降ってわいた原研候補地
第6章 県の誘致戦略
第7章 熾烈な誘致合戦
第8章 覆った「最適地・武山」
第9章 正力の閣議欠席
第10章 正力何度も「東海村」主張
第11章 茨城と正力をつなぐ糸
第12章 首相狙う正力、米国を利用
第13章 正力、発電への執念
第14章 疑問の声、村内に少数
第15章 広がらない反対論
東の海に薄明が広がり始めていた。
1957年8月27日、東海村の日本原子力研究所の研究用原子炉「JRR―1」の制御室。静まりかえった部屋に、カチカチという音が響く。炉心で発生する中性子の数をガイガーカウンターが測定する音だ。
午前5時前。ベルが鳴り響き、原子炉に差し込まれている4本の制御棒を1本ずつ引き抜く作業が始まった。制御棒を操作したのは当時28歳の苫米地顕(とまべちけん)(82)。5カ月前に原研に入所したばかりだった。
目指すのは、エネルギーを発する核分裂反応が継続して起こる状態、臨界だ。
作業は前日の朝から始まっていた。燃料のウラン235を少しずつ注入して制御棒を抜き、臨界に達したかどうかを確認する手順を、徹夜で6回繰り返していた。
後に原子力安全委員長になる24歳の佐藤一男(78)は、原子炉の真下にある地下室でその燃料注入を担当した。
制御室にはいつの間にか人が増え、20人ほどになっていた。苫米地が最後の1本の制御棒を引き抜くレバーを押した。出力計の針を全員が凝視する。カチカチという音がせわしくなった。
制御棒が半分ほど引き抜かれたとき、針がぐんぐん上がり出した。
「何時だ、何時だ」
誰もが一斉に腕時計を見た。
「5時23分、臨界に達しました」
日本で初めて「原子の火」が灯(とも)った瞬間だった。この日、東海村の夜明けは5時4分。曙(あけぼの)を迎えた日本の原子力の未来も、差し込む光明しかないかのようだった。
◇
その日の朝日新聞は1面の解説で称賛した。「(世界からの)遅れを取り戻そうと日本原子力研究所の努力が広島、長崎の原子爆弾以来12年目に『第二の火』を東海村にともすことの意義は大きい」
世界初の原子炉の臨界に米国が成功して15年。原研の東海村設置決定からわずか1年4カ月後のことだった。
原子力開発はここから加速する。「JRR―1」は米国から購入したものだが、この5年後に初の国産原子炉「JRR―3」を造り、更にその翌年、発電に成功する。
「原子力は将来のエネルギーになる。それを自分たちが担うんだという気概が研究所に満ちていた」と苫米地は言う。「JRR―1」で訓練を重ね、高速増殖炉の研究や、運転が始まった各地の原発に移っていった技術者らは1944人にのぼる。
原子の火の点火に立ち会った佐藤は、原発の安全管理の道を歩み、93年に原子力安全委員会に入った。しかし委員長だった99年、東海村の核燃料加工会社「JCO」で国内初の臨界事故が起きる。危機管理意識を欠いた組織がずさんな手順で核燃料を製造し、2人の死者を出す大惨事となった。
「いつのまにか『安全神話』がつくられ、油断や慢心、おごりが積み重なってしまった」。翌年、委員会を辞めた。
佐藤がこの時の悔恨の苦さを再び味わったのは、12年後の2011年3月11日である。
◇
東日本大震災の翌日。日本原子力産業協会参事の北村俊郎(67)は、福島第一原発から7キロ離れた福島県富岡町の自宅で妻と猫5匹を車に乗せ、内陸に向かって走り始めた。12年前に建てた我が家が、バックミラーの中で小さくなっていく。
「福島第一原発で緊急事態が発生しました。川内村役場を目指して避難してください」。午前9時ごろ、町の防災無線からアナウンスが流れた。車に積み込んだのは位牌(いはい)、わずかな衣類と食べ物、あとは仕事用のノートパソコン。「どのくらい避難するのかしら」と問う妻に、「せいぜい2、3日だよ」と答えた。
あの日から10カ月が経とうとしている。推進してきた原発が起こした大災害で、自宅に戻れない避難者15万人のうちの1人になった。川内村、郡山市と福島県内の避難所を転々とし、11年7月から郡山市の隣、須賀川市の借り上げ住宅で暮らす。
北村は67年、設立10年の日本原子力発電に入社した。以来40年近く、原発に携わってきた。74年から8年間、国内初の商業用原発である東海発電所で、作業員の安全管理の仕事を担った。東海原発は英国製の原子炉を地震の多い日本向けに改良したもの。実際には先に導入ありきで耐震対策は後付けされたものだったが、当時は、技術者の安全意識の高さを誇りに感じていた。
人事部長、社長室長と要職を務め、05年に退社。原子力産業のメーカーや原発立地自治体などでつくる業界団体の日本原子力産業会議(現在の協会)事務局に入った。
そのころ、米仏の原発を調査で視察し、日本の原子力界が問題を抱えていることがはっきりと見えてきた。07年から08年にかけて、業界誌に「原子力50年目の危機」と題する連載記事を書いた。40年近く勤めて感じた電力会社の形式主義や閉鎖的な体質、安全を危うくする下請け・孫請けの発注構造を、現場管理の立場から自分なりに訴えたつもりだった。めどが立たない高レベル放射性廃棄物の処分問題という原発のアキレス腱(けん)も、正面から指摘した。
でも、まさか根源の「安全」が失われる事態が起きるとまでは、考えたことはなかった。住民への説明で重大事故の確率を聞かれて、「1万年に1回」と答えていた。
いま、こう振り返る。「会社は電気出力を上げ、検査期間を短くして稼働率を上げることに躍起だった。効率性を追求するあまり、原子炉や核燃料に対する恐れが薄れてしまった」
避難生活の間、日々感じたことを自宅から持ち出したノートパソコンにつづった。まとめたものを2011年10月に出版した。
書名は「原発推進者の無念」。帯には、こんな言葉を入れた。「私はもう、原発が『安全』とは言えない」
「原子力研究所有力候補地に水戸海岸・米軍演習地を選ぶ」
1956(昭和31)年1月17日、朝日新聞茨城版トップに大きな見出しが躍った。
前年に発足した原子力研究所の建設候補地に、旧勝田市、旧那珂湊市、東海村にまたがる米軍の爆撃演習地があがっているという特ダネ記事だった。
地元茨城にとってはこれがすべての始まりだったが、もちろんいきさつがある。
敗戦で原子力研究を制限された日本は、51年のサンフランシスコ講和条約で独立を回復して以降、原子力開発を求める声が高まる。53年に米アイゼンハワー大統領による「原子力の平和利用」演説があり、「学者の国会」日本学術会議を中心に、研究のあり方をめぐって議論が活発化していた。
そんななか、54年3月2日、野党改進党議員の中曽根康弘(93)らが突如、原子炉製造補助費を含む初の原子力予算案を国会に提出した。寝耳に水の科学者らの衝撃を、新聞は「原子力予算知らぬ間に出現 驚く学界、こぞって反対」(3月4日付毎日新聞)と報じ、「いったい、どこの、だれが、日本で原子炉製造計画を具体的に持っているか・・・
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「わたくしたちはゆかしい歴史と原子の火に生きる東海の村民です」と村民憲章にうたう東海村。55年前にこの地で日本の原子力開発が産声を上げて以降、我々の国土には54基の原発が立ち並んだ。そして、多くの人が故郷を追われ、放射性物質におびえる日々を迎えた。「3・11」の起点に何があったのか。朝日新聞茨城版の連載「原子のムラ 東海村に火灯る(全30回)」の前編、第1回〜15回までを収録。[掲載]朝日新聞(2012年1月1日〜1月21日、22500字)
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