80年代以降、原発事故が相次いだ。推進、反対両派の対立が解けぬ中、メディアは事故報道に追われるばかりだった。何が欠けていたのか。2012年2月1日から28回に渡って朝日新聞夕刊で連載された「原発とメディア」の第3部「対立のはざまで」を収録。
第1章 科学部の新しい血
第2章 科学部長の交代
第3章 暁の記者会見
第4章 チェルノブイリの衝撃
第5章 盛り上がる反原発運動
第6章 史上最悪事故の社説
第7章 テレビで是か非か激論
第8章 国内初のECCS作動
第9章 あらわになった情報隠し
第10章 存亡の危機迎えた動燃
第11章 被曝による犠牲者
第12章 臨界事故が発した警告
第13章 省庁再編の死角
第14章 東電のトラブル隠し
第15章 地震学者の執筆打ち切り
第16章 記者OBからの報道批判
第17章 「事故待ち」だった報道
第18章 元通信社記者の問いかけ
第19章 ブレーキかけながら追認
第20章 イエス・バットの寿命
第21章 対話への模索
第22章 二分法の構図
第23章 原子力村をめぐって
第24章 原子力村の手法
第25章 核燃料サイクルの是非
第26章 警鐘鳴らした学者の辞任
第27章 苦い教訓は生きたのか
第28章 過熱報道だったのか
1979年3月に起きた米スリーマイル島原発事故から間もない4月4日、大阪で原発批判派の大学講師らが開いた記者会見を朝日新聞大阪本社社会部の泊(とまり)次郎(67)が取材した。「炉心の4分の1が溶融状態にあり長期間危険が続くとみられる」と分析した。原稿を出すと、東京の科学部から大阪の社会部デスクにクレームがついた。「発表はデタラメだから載せるな」。記事を短くし大阪本社用に再出稿した。途中版には載ったが、最終版では姿を消した。
科学部長の木村繁が5月12日、大阪・中之島で一般向けに講演をした。演題は「米国原発事故のすべて」。泊も聴いたが、「大した事故ではない」という主張に納得できなかった。終了後、泊は木村に異論を唱えた。場所を喫茶店に移し、「炉心溶融があったはず。重大な事故だ」と食い下がったが、木村は「全く違う」とはねつけ、こう告げたという。「俺の目の黒いうちは、君を科学部に呼ばない」。炉心溶融が確認されたのは85年のことだった。
木村とのやりとりがあった頃、泊が行きつけのスナックに足を運んだ時のことだ。待ち構えていたかのように、原発取材で知りあった関西電力の幹部がささやきかけてきた。「科学部を希望しているんでしょ」
大学で地球物理を学んだ泊は、地震や地球科学を本格的に取材したいと、確かに科学部志望を固めていた。ただ、社内の一部しか知るはずがない人事の希望を、電力会社の人間に言い当てられ、絶句した。
翌80年1月に木村が科学部から去ると、雰囲気がやや変わった。原発に批判的だった大阪本社学芸部員の友清裕昭(68)が81年1月、科学部員となった。泊も82年6月に続いた。木村の後任である柴田鉄治(77)が、「新しい血」として迎えた。
柴田は科学部長として、原発についての見解を紙面上で記した。「先を急いで安全性を軽視することは許されません。朝日新聞は、これからも厳しい目で見守っていく所存です」(81年5月31日付)
原発推進の立場を鮮明にしてきた朝日新聞社科学部長、木村繁は、1980年の元日付で調査研究室主任研究員に転出した。
後任には、社会部出身の論説委員柴田鉄治(77)が選ばれた。大学は理学部を出て科学や教育の社説を担当していたとはいえ、本人は「予想もしない人事だった」。
東京本社編集局長だった中江利忠(82)によると、科学部長人事は論説主幹だった岸田純之助(91)の発案だった。岸田は木村について「過激で困るね」と中江に話していた。柴田が論説委員を兼務したのも、岸田がつけた条件だった。
79年8月、原子力問題を担当する朝日記者を集めて開かれた社内研修会で、柴田は岸田らとともに講師を務めた。様々な条件をつけたうえで原発を容認する「イエス・バット」の方針を説明している。一方、木村は「原子力の開発に当たっては、できるだけ早く、信頼性の高い技術を自主的に確立すべきであると考えております」(77年5月1日付朝日新聞)と書いた。
柴田は、労組で委員長をつとめ、社内で言論を自由に闘わせることの大切さを信じていた。毎週のように開いた科学部の部会では、時々のテーマについて部員一人ひとりが発言するようにした。それまでは部長の話が中心だった部会は、長くなった。終わると、場所を酒席に移して話し合った。
ただ、柴田は原発報道について急カーブを切ろうとしたわけではなかった。木村の下で原発推進を主導した科学部に対し社内で渦巻いていた反発も、くすぶり続けた。
80年1月17日、福井県高浜町で関西電力高浜原発3、4号炉増設について住民の意見を聴く公開ヒアリングがあった。原子力安全委員会が初めて主催するヒアリングに東京科学部の男性記者2人が出向いた。大阪学芸部の友清裕昭(68)も訪れた。
友清は78年、作家野間宏が文化欄で書いた、原告住民敗訴の伊方原発訴訟の判決に対する批判の論考を手がけた。原発の安全性に疑問を抱いていた。
ヒアリングの前日、科学部員と同じ民宿に泊まった友清は問いかけた。「緊急炉心冷却システムは働くのか」「連載『核燃料』に問題はなかったのか」。議論は深夜まで続いた。
1981年4月18日午前2時前、朝日新聞福井支局員だった吉田定雄(64)は、宿直室で寝入りばなに電話を受けた。東京の社会部からだった。「午前5時から通産省で、敦賀原発についての記者会見がある。地元で情報はないか」
前例のない時間帯の発表は「暁の記者会見」と呼ばれた。日本原子力発電の敦賀発電所で雨水しか流れないはずの一般排水路の出口にたまった土砂から放射性物質が検出された・・・
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80年代以降、原発事故が相次いだ。推進、反対両派の対立が解けぬ中、メディアは事故報道に追われるばかりだった。何が欠けていたのか。2012年2月1日から28回に渡って朝日新聞夕刊で連載された「原発とメディア」の第3部「対立のはざまで」を収録。[掲載]朝日新聞(2012年2月1日〜3月9日、25600字)
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