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朝日新聞社

刑事の結界〔1〕 盗まれた青酸ソーダ、失敗した尾行

初出:2012年3月13日〜4月4日
WEB新書発売:2012年6月8日
朝日新聞

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 団塊世代の警察官たちの時代がまもなく終わる。警察社会では経験や技術の継承が言われて久しい。本シリーズでは、神奈川県警で40年を駆け抜けた元刑事の証言をもとに、迫真の事件現場や捜査の舞台裏を克明に描いた。法と犯罪、己と組織。決して汚すことができない社会正義という聖域。「刑事の結界」とは何だったのか――。

◇第1章 逆バン
◇第2章 追憶
◇第3章 銃痕
◇第4章 四十九日
◇第5章 定石


第1章 逆バン

 未明には雪が雨へとかわり、雨粒が屋根をたたく。1985年2月。男は白い息を広げながら、盗んだばかりの鍵で重々しい鉄扉を開けた。
 あめ色の瓶がズラッと並んだ棚の前で立ち止まる。
 「シアン化ナトリウム」。別名「青酸ソーダ」。わずか数百ミリグラムでも口にすれば、大人1人が死亡する毒物だ。
 84〜85年に世間を騒がせた「グリコ・森永事件」をヒントにした。瓶を盗みだし、計画を温め続けた。
 91年1月中旬。ある大手電機メーカーの川崎事業場に茶封筒が届いた。
 「ソチラデフンシツシタシアンカナトリウムヲモッテイル」
 脅迫状だ。A4大の白色の紙に、筆跡を隠すように定規を使った文字で書かれていた。微量の白い粉末が入った透明な袋と大量のあめ色の瓶の写真が同封されていた。
 1億5千万円を要求する。応じる場合は受付前に白いバラを、拒否する場合には赤いバラを置け――。
 当時はバブル崩壊の足音が近づいていたが、大手電機メーカー各社が過去最高の売上高を記録するなど、まだ多くの企業が活況に沸いていた。一方で、グリコ・森永事件をきっかけに、青酸ソーダや青酸カリをちらつかせて、企業に多額の金を要求する事件も相次いでいた。
 事業場の従業員は薬品倉庫に走った。「いたずらであって欲しい」。が、薬品倉庫の棚にあるはずのシアン化ナトリウムは、一本残らず消えていた。
 事業場が狙われる不安もあった。仮に浄水に青酸ソーダが流し込まれれば、犠牲者の数は計り知れない。7千人の従業員を人質に取られたようなものだ。
 社内の事情に精通している者の犯行だ。そうにらんだ県警は捜査1課特殊犯捜査係を投入した。通称「特殊班」。誘拐、人質立てこもり、企業恐喝、テロ、航空機墜落といった事件や事故の最前線に出動する。巡査部長だった島田伸一は特殊班に入り3年目を迎えていた。
    ◇
 県警本部捜査1課に入る以前の島田は、署の刑事だった。1課行きの声はかかっていたが、拒み続けていた。多忙で家に帰れない。離婚した先輩もいた。署の勤務で十分と思っていた。しかし、署の上司から、「これ以上断る理由がない」と背中を押された。
 島田はいかつい先輩刑事の所作を盗むように立ち振る舞い、たばこはきつめのハイライトに変えた。下戸だったが、酒好きの上司にも付き合った。
 ターゲットは水をたくさん使う食堂だろう――。そうにらんだ島田ら特殊班は、人の出入りがなくなった深夜から早朝まで張り込んだ。食堂のテーブルの下や厨房(ちゅうぼう)の隅で、いつ現れるか分からない犯人を待ち続けた。
 1991年1月半ば。手はかじかみ、足元は底冷えする。セーターを重ね着しても、容赦ない寒さが肌を刺してくる。
 捜査は極秘で進んだ。脅迫文の中身や薬品名は犯人しか知り得ない。万が一にも、情報がマスコミをはじめ外部に漏れてはいけない。帰宅はもちろん、家族への電話もできない。会議室の灰皿はすぐに吸い殻の山をつくった。
 寝泊まりは機動隊の宿直室だ。「事態がいつ動くかわからん。常に万全の状態でいろ」。上司は禁酒を命じた。
 「島田っ。あいつを呼んでこい」。2月にさしかかろうとしていた。上司の怒鳴り声が機動隊の会議室に響いた。応援に来た若い刑事が夜中、こっそり酒を飲んだのだ。島田はそんな役はご免だと戸惑っていた。
 それを察した先輩が島田の代わりに呼んできた。ガシッと砕けるような音が聞こえた。分厚い資料で頭をたたかれて直立する姿が、周りの緊張感をさらに高めた。
 上司がいらだつのも無理はない。すでに一人の男が捜査線上に浮かんでいた。事業場に勤める30代の警備員だ。同じような脅迫状が、この男の自宅にも送られていた。企業を脅す手紙を一介の警備員が受け取るのはあまりにも不自然だった。
 島田ら特殊班は、10人がかりで男の尾行を始めた。
    ◇
 島田は男の特異な行動が気になっていた。
 通りのショーウインドーの前に立ち止まり、隅々まで眺めている。パチンコ店に入ると、パチンコ玉を追わずに座った台のガラス面を注視する。男はそこに映る人間を一人ひとり確認していたのだ。
 電車に乗れば、乗降客の少ない駅で一度降りる。ホームで客の流れをつぶさにチェックする。ドアが閉まりかけるころ、再び同じ車両に飛び乗る。
 会社に脅迫状が届き、しばらくたった。尾行も1週間が過ぎた。島田の番が再びまわってきた。
 夜通しの警備を終えた男は、いつものように通勤で使う電車に乗った。ドア付近に立ち、車窓を眺めている。乗客を装った島田は同じ車両に立ち、男の方に目をちらつかせた。
 男はふいに古ぼけた駅で降りた。自宅に近い駅より手前だ。これまでの捜査でこの駅を利用したと報告されたことはなかった。
 午前中のホームはすでにラッシュ時間を過ぎ、人はまばらだった。駅員のアナウンスがやけに響いた。
 島田は男に続いて改札を抜け、15メートルほど離れて歩いた。駅前の商店街のビルのショーウインドーはやけに大きい。映った自分の姿に男が気づかないだろうか――。
 ふいに、男が細い路地を左に曲がった。島田も続いた。
 島田はたじろいだ。男が道の真ん中で仁王立ちになり、こちらをにらみつけている。
 「しまった」と思わず漏れそうになった声をのみ込み、男の脇を通り過ぎようとした。
 ビクッとした様子を悟られなかったか。目は泳いでいなかっただろうか。足はもつれないだろうか。頼む、早く通り過ぎたい。体が硬直しているのがわかった。真横を過ぎた時にはゾクッと冷たい風が吹いたかのように感じた。
 助かった。しかし、そんな余韻は一瞬にして立ち消えた。まるで背中に目があるかのように、男の気配を感じる。
 男の手が、自分の肩に伸びてくるのがわかった・・・

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