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朝日新聞社

刑事の結界〔2〕 死刑執行、涙が止まらない理由

初出:2012年4月5日〜4月25日
WEB新書発売:2012年6月8日
朝日新聞

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 2009年7月、東京拘置所で死刑が執行された。1999年の事件当時、神奈川県警の警部補として事件を担当した元刑事は、この事件を今でも忘れることができない。死刑囚が家族に見せた最後の愛情とは何だったのか。40年に渡って治安を支えた神奈川県警の元刑事の証言をもとに、迫真の事件現場や捜査の舞台裏を克明に描いたシリーズ「刑事の結界」第2部。

◇第1章 望郷
◇第2章 哀情
◇第3章 動機


第1章 望郷

 2009年7月下旬。
 夕方、大和署刑事課に新聞各紙が届いた。いつものように、そのうちのひとつを手に取った島田伸一は、半年ぶりとなる死刑執行の記事が目にとまった。
 市民が法廷に参加する初の裁判員裁判が6日後に控えていた。衆院が解散され、政権交代をかけた衆院選が迫る時期でもあった。政治的な空白期の執行を、死刑反対派の議員らが批判し、ニュースはおのずと世間の耳目を集めた。
 だが、島田はそんな議論に目をやることができなかった。ただ、紙面に載ったひとりの中国人死刑囚の名前を見つめた。
 「ついに来たか……」
 読みかけていた新聞を閉じた。
 手がけた捜査は数知れない。が、死刑が執行された事件は生涯ただひとつだった。
 10年前にさかのぼる。
 1999年5月末。空には雲が立ちこめていた。
 島田は警部補に昇進し、川崎署の刑事1課強行犯の係長になっていた。
 まだ座りなれない椅子に腰かけていると、頭上のスピーカーから、がなり声が聞こえてきた。
 「緊急通報 緊急通報 川崎駅前の雑居ビルエレベーター前で負傷者。多量の血を流し重傷」
 署から走って5分ほどの14階建てビルだ。島田は捜査1課特殊班時代から愛用していたジャンパーを手に取り、同僚と署を出た。
 到着したビルのエレベーターの前に、顔を粘着テープでぐるぐると巻かれて目隠しされた男性が倒れていた。口からは血を流していた。わずかに呼吸をしていた。反応は、ない。
 エレベーターの中にも血痕があった。島田らはエレベーターと非常階段にわかれて階上に向かい、現場を捜しまわった。
 マンションとなっている10階まで上がったところで、大量の血痕が見つかった。それが突き当たりの一室まで続いていた。
 「ひでぇ」
 島田は息をのんだ。室内は血の海だった。
 奥の部屋で、折り重なるように男女5人が倒れていた。
    ◇
 川崎市にある雑居ビルのエレベーター前で見つかった男性と、10階のマンションにいた男女5人はいずれも中国人だった。粘着テープで目と口をふさがれ、手足はチェーンで縛られていた。
 仰向けで倒れていた女性のひとりは、腹から20センチほどの高さまで血が噴き出している。島田は慌てて傷口を手で塞いだ。女性は言葉が出ない。口をパクパクとさせていた。
 「救急車を何台でもいいから呼んでくれっ」
 島田は周囲に叫んだ。
 救急車が到着すると、島田は女性と一緒に乗り込んだ。女性は意識を失いかけていた。生存者がいなくなると事件は解決できない。島田はほっぺたをひっぱたいた。
 「誰がやったんだ。おい。誰がやった」
 女性の口がわずかに開いた。
 「ダートン……。ダー、トン」
 女性はうめいた。
 島田は続けた。
 「何人いたんだ」
 「イッパイ……。イッパイ」
 10分ほどで川崎市内の病院に到着。この女性は一命を取り留め、入院した。だが、マンションにいた男女3人の死亡が確認された。
 襲われた中国人の身元はすぐに割れた。6人のうち5人が福建省出身で、この部屋で暮らしていた。1人は上海出身で、部屋に遊びに来ていた。
 部屋には、親族が集まった結婚式の集合写真があった。そこに写った人物を中心に捜査が進んだ。部屋に押し入ったのは、住民らの遠い親戚で、都内のアパートを根城にする強盗グループだった。事件から2週間もすると、次々と逮捕者が出た。
 一方で、部屋からは偽造された外国人登録証も見つかった。住民らは密航者だった。母国からやってくる密航者を相手に、日本での仕事のあっせんや貸付金の回収をしていたグループと確認された。
 背後には、中国人の密入国をあっせんする犯罪組織「蛇頭」の影があった。蛇頭は主に福建省出身者でつくられ、バブル景気で沸いた1980年代以降、日本でも暗躍を続けていた。
    ◇
 川崎市の雑居ビルに押し入ったグループのリーダー格とされる男の行方がわかった。
 共犯の男の供述で、リーダーが都内の銀行に現れることを島田らは知った。凶悪事件の首謀者とみなされる男だ。身柄の確保は慎重を期す必要がある。近くには重装備の機動隊員が待機していた。
 供述通り、リーダーは金を引き出そうと銀行に姿を見せた。島田らは背後から飛びかかって男を押さえた。
 男は川崎署に到着した。署に本部の捜査1課が続々と乗り込んできた。
 「島ちゃんさぁ。取り調べは1課でやるよ」
 年上の1課の警部が島田に声をかけた。ムッとした島田に気づかず続けた。
 「取り調べの担当者がすぐに到着するから。それまで頼むよ」
 島田は前さばきを任されたにすぎなかった。
 捜査は本部と署の刑事がペアになって進める。たいがいは本部の刑事が主導権を握る。
 島田は断った。
 「自分がすべてやります」
 上司の指示に背くことはめったになかった島田だ。しかし、島田は必死の思いで男に飛びかかり、署に連れてきたのだ。捜査1課の特殊班で修羅場を経験してきたプライドだってある。
 島田の抵抗に警部は折れた。その日だけ任せることにした。
 1課の刑事が来る前に男を落としてやる――。
 島田は通訳の女性を介して対話を続けた。だが、リーダー格の男は首を横に振るだけだった。
 「これだけのことやったらどうなると思う。死刑だぞ」
 男は反応した。
 「殺してない。俺たちは縛って金や腕時計を奪っただけだ」
 焦った表情を見せた男に、島田は迫った。
 「じゃあ、殺したのは誰なんだ」
 男はぽつりと答えた。それはあの日、救急車の中で島田だけが聞いた名前だった。
 「ダートン」
 男は事件の詳細を語り出した・・・

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