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朝日新聞社

刑事の結界〔3〕 手がかりのない、神隠しのような話

初出:2012年4月26日〜5月16日
WEB新書発売:2012年6月8日
朝日新聞

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 一度見た顔は忘れない。後ろ姿でも気づく。刑事として生きてきた40年で、これほど手がかりのない、神隠しのような話に遭遇したことはなかった。行方不明となった少女の手がかりは、かけらもなかった。この春引退した神奈川県警の元刑事の証言をもとに、迫真の事件現場や捜査の舞台裏を克明に描いたシリーズ「刑事の結界」第3部。

◇第1章 香
◇第2章 万感


第1章 香

 紀元前の中国戦国時代、母親が家の門に寄りかかって子の帰りを待ちわびた故事がある。「倚門(いもん)の望」という。子を思う親の切実な愛情は、悠久の歴史を通じても、なんら変わることはない。
 横浜市旭区。相鉄線二俣川駅から15分ほど歩くと住宅街が広がる。車が1台通るのがやっとの細い路地が民家の間を縫っていく。
 幼い姉弟が笑い声を上げて自転車で走り去っていく。女性が玄関先の鉢植えに水をやっている。ありふれた住宅街の一角に、築35年の野村家はある。ベランダでは、洗いたての洗濯物が揺れている。
 カンカン、カンカン。あのときと変わることなく、遠くの踏切の音が響く。
 2月下旬。大和署刑事1課係長の島田伸一は見覚えのあるバイパスや交差点を抜け、この付近を通りかかった。署から車で横浜市内に向かうときには、必ず通るようにしていた。捜査1課特殊班員だったあの日々を思い出しながら、だ。刑事生活の終幕が翌月に近づくにつれ、無念の思いは、こみ上げるばかりだった。
 野村家の1階にある6畳和室。かつて四六時中、島田ら刑事が出入りしていた部屋だ。当時あったブラウン管のテレビは姿を消し、薄型テレビが置かれている。
 キャビネットのガラス戸には、何枚ものB5用紙が張りつけられている。行方不明者の情報提供を呼び掛ける大きな文字に、髪の短い、幼い少女の顔写真。くりっとしたアーモンド形の瞳が、じっと見つめている。
 そばには、よく似た面影の、でも少し大人びた、10代の少女の似顔絵。それに、ピンク色の口紅と耳元のピアスが鮮やかな、成熟した25歳の女性の似顔絵もある。
 野村香(かおり)。この家の次女だ。
 幼いころの写真と、その後をイメージした似顔絵が飾ってある。
 ガラス戸には振り袖姿の女性の写真も並ぶ。漆黒の晴れ着に身を包み、控えめにほほ笑んでいる。10年ほど前、成人式を迎えた長女の梢(こずえ)が写真館で撮ったものだ。
 年子の姉妹の成長の証し。
 あの日、あの時、香がいたこの家で、一家は20年以上の月日を重ねた。
    ◇
 1991年10月1日。肌寒い1日だった。厚く垂れ込めた鈍色の雲が、前夜からしきりに雨を降らせていた。
 野村郁子(38)は夕方の帰宅ラッシュで混雑する電車に揺られていた。
 横浜市内の靴の販売会社でパート勤めを始めたのは、1カ月ほど前のことだ。伝票の確認や電話の応対で、休憩を挟んで6時間の事務仕事はあっという間に終わる。
 電車の窓ガラスを斜めに流れる雨筋を、郁子はぼんやりと見つめた。重い湿気を含んだ車内の空気が、疲れを増幅させた。
 最寄り駅に着いてから5分。カッパ姿の郁子は原付きバイクを自宅の車庫に止め、小走りで数メートル先の玄関に向かった。
 「ただいま」
 返事がない。
 火曜日だった。娘2人の習い事の日。小学4年の姉の梢(こずえ)(10)は電子オルガン、1学年下の香(かおり)(8)は習字の教室へ。
 午後5時を過ぎていた。いつもなら2人とも帰っている時刻。だが、姿はない。
 「雨だからね。帰りに時間がかかっているのかな」
 和室の座卓には、香の漢字ドリルとノートが開いたままになっていた。郁子が出勤前に用意していったおやつのうち1人分は手つかずだった。まじめな香が、宿題を終えてから食べようと思って、そのままにしたのだろう。
 几帳面(きちょうめん)にたたんであるクリーム色のトレーナーは、ついこの前、ショッピングセンターで香が選んだものだ。墨汁で汚れるのを嫌って、着替えていったに違いない。
 郁子は夕飯の買い出しにと、近くのスーパーに出かけた。
 30分はかかっただろうか。野菜を中心に買い込んで家に帰ると、梢が玄関先で受話器を握っていた。母と妹がいないと心配し、母の知人に電話をかけていたのだ。
 「香と一緒じゃなかったの」
 梢は郁子が香を迎えにいっているものだと思っていた。不安げな梢にそう尋ねられた郁子は、買い物の間には2人そろって帰ってきているだろうと、たかをくくっていた。
    ◇
 すでに日は傾き、辺りは薄暗くなっていた。小康状態だった雨も、ふたたび勢いを増していた。
 書道の展覧会が迫っていたから、娘の帰りが遅くなっているのかもしれない。いや、いくらなんでも遅過ぎやしないか。
 野村郁子は電話帳で習字教室の番号を手繰り、ダイヤルを押した。応対した男性に教室への取り次ぎを頼んだが、返事は予期せぬものだった。
 「習字教室の方は、みなさん帰られましたけど」
 郁子は梢(こずえ)を家に残し、450メートル離れた習字教室までの道のりをたどった。
 空き地、二俣川の川面、相鉄線の線路……。どんな人影も見逃すまいと、薄闇に目をこらす。だが、みつからない。
 いったん家に帰った。香(かおり)が通う習字教室の友達に電話を掛けた。
 「今日、香は何時ごろ帰ったかな」
 「香ちゃん、今日はお休みしてた」
 もしかしたら、どこかで遊んでいるのかもしれない。香の友達宅に電話をかける。担任の先生にも相談した。クラスの連絡網で問い合わせてもらった。
 でも、香の居場所はわからずじまいだった。
 「警察に連絡してはいかがですか」
 担任が電話口でそう言った。郁子は驚いた。「そんなに大げさにしないといけないのでしょうか」
 午後8時半が過ぎた。
 郁子は覚悟を決めて警察に電話をかけた。夫の節二(43)が働く鎌倉市内の化粧品工場にも連絡を入れた。
 通報から10分も経たないうちに、3人の警察官がやって来た。
 家の中がにわかに慌ただしくなった。
 1人の警察官が家中の押し入れや天袋、物置に至るまで、くまなく調べまわった。郁子は促されるままに戸を開け、中を見せた。ほかの2人は、じっと郁子の様子を観察しているようだった。
 事情を聴いた香のクラスメートの親や近所の人たちが、懐中電灯を手に、香を捜してくれた・・・

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