【お知らせ】WEB新書は閉店しました。

社会・メディア
朝日新聞社

プロメテウスの罠〔9〕 ロスの灯り「核燃の夢、残った死の灰」

初出:2012年3月19日〜4月14日
WEB新書発売:2012年6月15日
朝日新聞

このエントリーをはてなブックマークに追加

 青森県は高レベル放射性廃棄物、いわゆる「死の灰」を生み出す核燃料再処理工場の県内設置を引き受け、福島第一原発の事故を受けても、国が「原子力推進」に立ち返るのを待っている。青森県はなぜ、こんなやっかいなものを引き受けたのか。

◇第1章 見過ごせない失敗
◇第2章 「米国の象徴を見た」
◇第3章 兵士を見送るように
◇第4章 布団に雪が積もる
◇第5章 トヨハラよいところ
◇第6章 会津武士の国替え
◇第7章 成長、まぶしすぎた
◇第8章 我田引水、何のその
◇第9章 「やりましょうや」
◇第10章 村中が新築ラッシュ
◇第11章 「田植え終わったか」
◇第12章 工場で働けばいい
◇第13章 口先だけの了解
◇第14章 目の前の金銭よりも
◇第15章 選挙には勝ったけど
◇第16章 乗り気じゃなかった
◇第17章 「所得倍増」の足固め
◇第18章 空き地があったから
◇第19章 「知事にぶつけるさ」
◇第20章 初めて金を出した
◇第21章 「例の無い干渉選挙」
◇第22章 やっぱり戻ると決心
◇第23章 女たちのキャンプ
◇第24章 大部屋宿舎も造った
◇第25章 夢の跡、死の灰だけ
◇第26章 核燃なき村を生きる


第1章 見過ごせない失敗

 福島第一原発の事故を受けても、国が「原子力推進」に立ち返るのを待っている県がある。青森県だ。
 その青森県で2012年1月、見過ごせないほど大きな「つまずき」が起きた。使用済みの核燃料をもう一度使えるよう再処理する工場でだった。
 事業者の日本原燃(にほんげんねん)は12年1月24日、再処理で出る高レベル放射性廃棄物をガラスで固める試験に向け、最終の作業に入った。
 炉に入れてあった模擬のガラスビーズを熱で溶かし、容器にうまく流れ落ちるかを見た。しかし、流速が決められた水準に達せず、作業は中止。試験は延期となった。
 社長の川井吉彦(かわいよしひこ)(68)は12年2月末の記者会見で「解決困難な技術的課題に直面しているのではない」と理解を求めた。しかし、無理があった。
 固化の失敗は初めてではなく、この失敗こそが再処理工場の完成を18回も延期してきた主因だからだ。
 しかも今回の試験は、与党の民主党の議員有志から、核燃料を再処理するのはもうやめようとの意見が出ている中でおこなわれた。
 失敗の原因は究明中だが、炉の壁にはりつけてあるれんががはがれ、ガラスを固化体の容器に流し込む漏斗(ろうと)をつまらせた可能性が大きい。
 そうならば、この失敗は茨城県東海村の模擬炉で2度起きた失敗と同じだ。日本原燃は、いまだ完成していない技術を青森に持ち込み、実用で使おうとしたことになる。
 高レベル放射性廃棄物はいわゆる「死の灰」だ。使用済み核燃料を再処理しプルトニウムとウランを取り出した後に残る。半減期が長い様々な核物質からなり、放射能量は固化体1本で2京(けい)ベクレルもある。表面の放射線量はできあがった時点で毎時1500シーベルト。近づけば1分以内に死ぬ。
 青森県は、高レベル放射性廃棄物を生み出す核燃料再処理工場の県内設置を引き受けた。それだけでなく、仏英につくってもらったガラス固化体1440本を「一時的に」貯蔵する施設も引き受けた。すでに1414本を受け入れている。
 今の状態で青森県側から、核燃料の再処理をやめて、という要望はない。最終処分地が決まっていないのにそんなことをして、「一時貯蔵」という約束がなくなり、永久に置いておかれては大変だからだ。青森県が原子力開発の継続を求める背景はここにもある。
 青森県はなぜ、こんなやっかいなものを引き受けたのか。それを知ろうとするなら、今から50年ほど前、ロサンゼルスの街の灯(あか)りに取りつかれた一人の男の話から始めなければならない。


第2章 「米国の象徴を見た」

 1963年9月22日午後8時。旅客機がロサンゼルス空港に向かって高度を下げた。その機内で、窓に顔をはりつけている日本人がいた。
 男はこれまで、機内の他の乗客の様子ばかり気になっていた。欧米人が深くしっかり座っているのに、日本人の座り方がだらしない。右左に傾いて……。それが今や、ロスの夜景の明るさに夢中になっている。
 男の名は北村正哉(きたむらまさや)(当時47)。後の青森県知事だ。しかしこのときはまだ青森県議の3期目だ。酪農視察の団員として、他県の代表とともに欧米に向かう途中だった。
 総勢は12人。アメリカやカナダ、西ドイツ、アラブ連合、香港など14の国と地域を見てまわる計画だった。当時の為替レートは1ドル=360円。旅費だけで1人数百万円もかかった。一行は日本の酪農の将来を背負っていた。
 しかし、ひとり北村は違った。
 帰国早々に著した「牛のよだれ 欧米酪農視察紀行」(三沢青年会議所)に、北村は酪農の話はそっちのけで、こんなことを書いていた。
 「一直線に灯で彩られた幅広い道路や点々と際立って明るく紅(あか)い繁華街、黒々と散在する公園、その他の無住地帯、かっと輝くスタジアム。これらの景色を飽(あ)かず見下しながら、私はここにアメリカを見た。広いという点でずば抜けたアメリカ、その広いアメリカの象徴としてのロスアンゼルスを見たのである」
 帰国後の北村の動きは早かった。
 経済企画庁で調査官をしていた下河辺淳(しもこうべあつし)(当時40)を、下北に連れて行く。下河辺はそのころ全国総合開発計画を推進。のちに阪神・淡路大震災復興委員長を務めた人物だ。
 ねらいは下河辺を通じて、半島の付け根部分を陸奥湾(むつわん)から小川原湖(おがわらこ)にかけて覆い尽くす巨大開発を、次の全国総合開発計画「新全総」に盛り込ませること。「むつ小川原開発」のスタートだった。
 この開発計画は、第三セクターが2500ヘクタールもの土地を所有したものの、当て込んだ鉄鋼会社や石油化学会社は来なかった。その結果、三セクは破綻(はたん)することになる。
 北村は、なぜこのような巨大開発をやろうとしたのか。
 開発の失敗が確定し、代わりに来た核燃料サイクル基地の建設がすでに始まっていた94年7月、知事になっていた北村に、その疑問をぶつけた。北村は答えた。
 「下北半島を青森のロサンゼルスにしたかったんだ」


第3章 兵士を見送るように

 12年3月、元経済企画庁調査官の下河辺淳に会った。元青森県知事の北村正哉が県議時代、下北開発を働きかけた人物だ。
 あれから48年。全国総合開発計画づくりにかかわってきた下河辺は88歳になっていた。
 青森県が巨大開発の誘致に熱心だったのは記憶している。しかし県議時代の北村と下北半島に行ったことは覚えていなかった。
 「あそこには年中行っていたもので……」
 1960年代半ば、下河辺は、東京、大阪から瀬戸内にかけての太平洋ベルト地帯にはもう石油化学工場はつくれないと考えていた。
 「事故が起きたときに取り返しがつかない、というのが一番の理由でしたね」
 では、下北半島は実際に見てどうだったのか。
 「小川原湖(おがわらこ)の方は外洋だからいい。陸奥湾(むつわん)はだめだと考えました」
 実現性については?
 「財界人が、消費地から遠いといやがっていましたね・・・

このページのトップに戻る