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朝日新聞社

中嶋悟のF1風雲録〔1〕 セナの助言、科されなかったペナルティ

初出:2012年5月8日〜6月9日
WEB新書発売:2012年6月29日
朝日新聞

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 少年時代の夢を追い続け、34歳で世界最高峰のカーレース「F1グランプリ」日本人初の通年参戦ドライバーとなった中嶋悟。初戦から善戦して日本人のF1ブームに火をつけ、引退後は日本のレース界を国際水準まで引き上げるべくナカジマレーシングの運営に取り組み、若手レーサーの育成を続ける。人気レーサーの故アイルトン・セナやネルソン・ピケらの横顔、ホンダエンジン・チームとのタッグ、愛息のF1参戦など、さまざまな回想やエピソードから、中嶋悟の不撓不屈のチャレンジ精神が伝わる。

◇第1章 世界水準へ挑む
◇第2章 10年の夢 かなった
◇第3章 ドタバタ劇の末 入賞
◇第4章 目隠しして突っ込む
◇第5章 ガス欠覚悟 突っ走る
◇第6章 名門の「迷車」に苦戦
◇第7章 車載カメラの代名詞
◇第8章 1千馬力 つらかった
◇第9章 ホームで入賞ゴール
◇第10章 人気ヒートアップ
◇第11章 1年目 6位内に4回
◇第12章 セナとピケ 英雄の姿
◇第13章 いい走り でも車が
◇第14章 よき理解者 失った
◇第15章 エンジンが止まった
◇第16章 3年目 移籍話フイ
◇第17章 抜き 抜き 抜いた
◇第18章 豪雨の中 最速を記録
◇第19章 1、2、3 車体番号だけ
◇第20章 抜かれるのも難しい
◇第21章 大事故 立て続けに
◇第22章 CM曲で歌デビュー
◇第23章 表彰台、亜久里が先に
◇第24章 エンジンに名前刻印
◇第25章 ラストラン15万人拍手


第1章 世界水準へ挑む/34歳でF1参戦、役割を確信

 サーキットの朝は早い。2012年の開幕戦は3月31日、中国山地の岡山国際サーキットだった。午前7時前。エンジニアやメカニックがコース脇にあるピットのシャッターを開ける。こもっていたオイルのにおいが山の冷気に混じる。静かに広がる緊張感は、観客が入った後のにぎわいとは一線を画す。
 チームを率いる中嶋悟(なかじまさとる)(59)は前日の午前8時半、ホンダ・レジェンドを運転して岡崎市の自宅を出た。山陽自動車道を和気インターで降り、山桜がまじり始めた山道を抜ける。若いころに走り込んだ奥三河の山道より、カーブも傾斜もなだらかだ。
 午後1時にピットに着くと「ナカジマレーシング」のスタッフが、専用トレーラーからレース車や資材を運び込んでいた。チームは静岡県御殿場市の工場ガレージを午前5時に出た。大きな箱いっぱいの部品や工具、走行データ解析用の数台のパソコン、机と椅子、ストーブまで持って回る。
 中嶋は工場長の藤井一三(かずみ)(58)やエンジニアと一緒にダンロップのモーターホームに行き、レースに使うタイヤの戦略を打ち合わせた。


 ピットに戻った中嶋が最初にやることは、いつも決まっている。レース車の正面に立ち、スポンサー名のロゴシールを点検する。しゃがみ込み、のぞき込み、角度を変えてロゴを見ながら車体を一回りする。
 「レースだけで経営が成り立つチームじゃないといけない。景気が悪いのに支援してくれるのは、目的を定めた堅実な企業。最大限のメリットを得てほしい。監督として一番大切な仕事だよ」。だが、このレースは、残念ながらリタイアに終わる。
 25年前の1987年、中嶋はモーターレースの最高峰とされるF1(フォーミュラ・ワン)グランプリで日本人初の通年参戦ドライバーになった。34歳。念願はかなったが、体力は限界だと思い知らされた。
 チーム経営でも多くを見た。ドライバーやエンジニアが勝つことに集中できる態勢こそ大切だと学んだ。
 「才能のある若手は早くF1に。そのためにも日本のレース界を、競技として尊重される国際水準に引き上げたい」。大見えを切る性格ではないのでめったに口にしない。が、91年にF1現役を引退しても、それが自分の役割だと確信し、実践してきた。
 中嶋のチームは今、二つの国内シリーズを戦う。岡山で開幕したのは「スーパーGT500」という外観が市販車に近いツーリングカーの選手権。もう一つは「フォーミュラ・ニッポン(FN)」。車体から4輪がむきだしのF1と同じ形の車で走る。
 スーパーGTに1台、FNに2台を出走させる。どちらも11月までに各8〜9戦でチャンピオンを決める。FNが96年に始まって以来、4人のチャンピオンを誕生させた。「うちは常にチャレンジャー。出来上がったドライバーばかりを起用しない」と、必ず1人は若手を登用する。
 ナカジマレーシングは、中嶋がF1に行くために83年に設立した有限会社中嶋企画が運営する。東京・渋谷に事務所を構え、19人全員が正社員。うち16人が御殿場ガレージに詰める。
 社長兼チーム監督の中嶋は自宅を拠点に、宮城県から岡山県までの開催地を車で回る。阿蘇山麓(さんろく)でのレースに航空機を使うほかは新幹線も使わない。レジェンドの走行距離は年間5万キロ。「自分で走る社長」だ。
 12年4月14、15日には、三重県の鈴鹿サーキットでFN初戦があった。


 ホンダエンジンを積むナカジマレーシングの2台は、17台のうち15位と16位だった。車の調整に失敗した。16位は次男の大祐(だいすけ)(23)だった。優勝はトヨタエンジンを積む別のチームで走る長男一貴(かずき)(27)。父のチームで走ったことはない。すでにF1を2年経験した。


 「申し訳ありません。みっともない最低のレースをお見せしました」。中嶋悟は観戦に訪れたスポンサー企業のエプソン販売や象印マホービンなどの幹部や担当者に謝ってまわった。
 12年5月3日、静岡県の富士スピードウェイであったスーパーGT第2戦の予選は、リタイアした岡山とは一転、作戦が的中し、雨のコースを快走した。
 予選トップが確定すると、ピットは大きな歓声に包まれた。次々に駆けつけるモータースポーツ誌のカメラマンに、ピットの奥にいた中嶋も引っ張り出され、フラッシュを浴びる。
 「やはり、こうでなくちゃ」とスポンサーの表情も緩んだ。



◎F1=カーレースの最高峰
 「フォーミュラ」は規格の意味。厳格な規格に基づいて開発される競技専用のレーシングカーで、4本のタイヤは車体からむき出しの「オープンホイール」になっている。F1グランプリはその最高峰のレースで、欧州を中心に世界中を転戦する。
 1950年以来の歴史があり、中嶋悟選手のころは年間16戦が定着していた。現在は中東やアジアでの開催が増え、2012年は3〜11月に20戦開催。日本では76、77年に富士スピードウェイで2度開かれ、日本人ドライバーもこのレースだけにスポット参戦したが、年間の全戦に出場したのは87年の中嶋悟選手が初めて。同年から鈴鹿サーキットを中心に毎年開催されている。1国1開催が原則。1レースの走行距離は約300キロ。直線の最高速が300キロを超えるサーキットもある。


第2章 10年の夢 かなった

 「いるいる、F1にいる。やっと来た」
 コースをゆっくり1周してスタート位置に着くと、中嶋悟はこみ上げる思いを抑えられなかった。赤信号が点灯し、スタートの緑に変わるまでの、ほんの数秒だった。
 1987年4月12日のブラジル・グランプリ決勝。10年思い続けたF1への夢がかない、ホンダエンジンを搭載したロータスチームから出場できた。34歳だった。スタート位置に並んだ22人の上から2番目。遅いデビューだ。
 金曜からのフリー走行や予選では、そんな気持ちにならなかった。予選は12位だったので、列の真ん中あたりにいた。前方にも、ミラーに映る後方にも、名だたるドライバーが並んでいるのが見えた。
 チームメートのアイルトン・セナから助言を受けていた。出場する車は26台。「後ろの車がすべてスタート位置に着くまで、クラッチを踏むな、ギアを入れるな。失敗してエンジンが止まった車は、手を挙げて合図するから確認しろ」。冷静なつもりで、そのとおりにしていても、感慨はわき上がってきた。
 レース前、チーム統括のピーター・ウオーから「無理をするな。自分のペースで走れば最後にいいことがある」と言われていた。F1に限らず、続けて305キロを走るのは初体験だ。中嶋自身も完走を目標に定めていた。
 中嶋はレース中、1台も抜かなかった。しかし、何台もの車がリタイアしたので7位でゴールした。6位以内の入賞まであと1台。
 61周のレースで優勝したアラン・プロストに2周遅れにされた。6位のナイジェル・マンセルからも1周遅れた。
 途中、タイヤ交換のため、早めに2度、ピットに呼び戻された。同僚セナのタイヤ交換時期を決めるため、中嶋のタイヤの傷み具合を参考にしたのだ。だが、そのセナは50周目にリタイアした。
 中嶋は完走に満足した。しかし、チーム戦略の厳しい現実も味わった。


■キーワード〈F1の参戦資格〉
 F1グランプリに出場するには、国際自動車連盟スポーツ委員会(FISA)のF1スーパーライセンスが必要。1987年当時は、FISAが認定する国際規格のフォーミュラ・レースに通算10回以上出場しているか、5位以上に年間5回入る実績などが必要だった。全日本F2選手権は国際規格に認定されている。中嶋悟は、年間10戦ほどある全日本F2だけでも6年間出場していたし、5位以内5回を上回る年間チャンピオンに5回なっていた。この要件を満たすドライバーは国内にも多いが、実際にF1で走るには、欧州のレースで走り、F1チームの幹部に評価されることが重要だった。


第3章 ドタバタ劇の末 入賞

 「F1にやってきたことである種の達成感があったからね、1年目はじっくり楽しもうという気分になっていた」
 1987年、F1に初参戦した中嶋悟は第2戦サンマリノ・グランプリも「走りきればいい」と思って臨んだ。予選は12番手。しかし、5月3日の決勝はドタバタ劇で幕を開ける。スタート位置に着くためにピットを出ようとしたら、車体ががくんと落ちた。
 「スタートして脱落するならともかく、コースにも出られないのではあきらめもつかない」と焦った。サスペンションを油圧ポンプで動かすバッテリーを調整したら、回復した。大あわてでコースに出たら、また車体が落ち、底のカバーがコースにこすれっぱなしで火花が飛び散る・・・

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