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朝日新聞社

伊勢神宮と戦争 宗教が国家の道具となるとき

初出:2012年8月14日〜8月21日
WEB新書発売:2012年8月31日
朝日新聞

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 伊勢神宮はいつの時代も、この国の歩みとともにあった。戦争に利用された過去もある。朝鮮人が犠牲になった神宮周辺の「大神都整備計画」、ナチスの若者も参拝し、国家統制を図った戦時体制、子どもも軍人も妻も戦勝祈願を参拝した対米英戦、「国家神道が日本人を狂信的な戦闘に駆り立てた」として廃止の危機となった敗戦後。伊勢神宮を軸に戦争と戦時社会を考える。

◇序章 大神都整備 朝鮮人犠牲に
◇第1章 国家総動員体制/ナチスの若者も参拝
◇第2章 少国民/忠誠心植え付ける場
◇第3章 戦勝祈願/子どもも軍人も妻も
◇第4章 空襲被害/戦意高揚へ誇大発表
◇第5章 防衛任務/高射砲 B29に届かず
◇第6章 敗戦へ/三種の神器 疎開検討
◇第7章 日本再建見つめ/敗戦祈った石橋湛山


序章 大神都整備 朝鮮人犠牲に/堤防工事で生き埋め事故 

 戦時中、伊勢の工事現場にいたことがある。
 朝鮮人労働者の親方だった厳大植は、戦後住み着いた石川県加賀市で生前、そう話した。そこで若者を事故で死なせた、とも言った。「妻は地面をたたいて泣き叫んだ。結婚して1週間かそこらの者もいたのに……」。たどたどしい日本語で記憶を絞り出した。
 ただ、伊勢のどの辺りで、どんな工事だったのか。それ以上、尋ねてもはっきりしないまま1988年4月、高齢者福祉施設で92年の生涯を閉じた。
 それでも手がかりは残っていた。晩年の約5年間、近所に住んで親交があった加端忠和(66)が、大阪に住む厳の孫から遺品の処分を任され、足取りが刻まれた手帳を見つけた。
    ◇
 1895(明治28)年10月、今の韓国慶尚北道に生まれた。日本が植民地支配していた1929(昭和4)年6月、仕事を求めて渡って来た。日本名は小山一郎。大阪府の墓地公園整備、石川県の海軍施設造成……。各地を渡り歩いた。
 手帳には、回った先々の地名が書かれていた。そこに「度会郡四郷村(現伊勢市)北中村内務省第一現場」があった。そして「皇国臣民ノ誓詞(せいし)」3カ条が巻末に添えられた別の手帳には、「昭和一六 神宮関係施設造営工事場」と記録されていた。内宮の宇治橋前で撮った写真もあった。
 郷土史家の加端は、地元に埋もれた近現代の日韓関係史に関心を持っていた。「過去の歴史は正しく伝えないと、なかったことになる」。繰り返し伊勢に足を運ぶようになった。


 「内務省第一現場」は内宮の宇治橋から約1キロ離れた五十鈴川沿いにあった。神宮周辺の「大神都整備計画」に伴う工事だった。
 49(昭和24)年に予定されていた第59回式年遷宮までに宮域を拡大し、周辺道路などを整備する計画。だが、戦争で予算が抑え込まれ、最低限必要なものが優先された。厳らは氾濫(はんらん)を繰り返す五十鈴川の堤防かさ上げを請け負った。
 近くに住んでいた三村幸一(80)は、訪ねて来た加端の思いに押され、薄れた記憶を少しずつ呼び覚ました。記録や資料を探すなどして協力した。
 「あばら屋のような長屋に住んでました。サツマイモでつくった飴(あめ)を買いに行ったことがあります。生活の足しにしたのでしょう」
 小高い丘に杭を打ち込み、崩した土をトロッコに積んでいた。日本人は手を出さない、危険な仕事だった。厳が話していたのは、少なくとも6人の朝鮮人が生き埋めになって亡くなった崩落事故だった。
 三村は言う。「『アイゴー、アイゴー』と悲しむ声が長屋から聞こえてきたのは覚えています」。治療も受けさせてもらえず、葬式もなかった。結局、大神都計画は中断し、そのまま敗戦を迎えた・・・

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