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朝日新聞社

ヒトラーの贈り物 Uボート日本来航記

初出:2012年8月16日、8月29日〜9月5日
WEB新書発売:2012年9月14日
朝日新聞

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 第2次大戦中、日独伊軍事同盟に基づき、ドイツと日本の間を潜水艦が行き交った。海軍の要人や技術者、機密資料の輸送に使われたのだ。4隻のUボートがドイツから日本へ、5隻の日本の潜水艦が日本からドイツへ往復を目指したが、極秘任務を無事に果たしたのは、それぞれ1隻ずつだった。旧海軍の潜水艦拠点だった呉港を起点に、第2次世界大戦の秘められた記憶をたどった。

◇序 章 Uボート 日本での日々
◇第1章 最新潜水艦 同盟の印
◇第2章 敵かわし 航海2ヶ月
◇第3章 呉への寄港 秘密裏に
◇第4章 国産化へ工業力の差
◇第5章 巨艦大和 武官に披露
◇第6章 海に散った極秘任務
◇第7章 降伏 狂わされた航路
◇第8章 戦局打開へ秘密指令


序章 Uボート 日本での日々/寄贈写真38点 くつろぐ乗員


 第2次大戦中の1943(昭和18)年8月、広島・呉港に到着したドイツ潜水艦(Uボート)の乗組員と日本側の交流を伝える多数の写真が、国立国会図書館(東京)の寄贈資料から見つかった。回航は極秘任務で、乗組員が日本国内でくつろぐ様子をとらえた写真は珍しい。
 この潜水艦は「U511号」。ロケットエンジンの図面やジェット機の設計など機密資料を積んで日独の輸送にあたったUボートのうち、唯一無事に到着していた。写真は計38枚あり、呉鎮守府司令長官を務めた南雲忠一・海軍大将(44年に戦死)の関係文書に含まれ、「独逸(どいつ)潜水艦呉寄港関係」などと表題がついている。91年から93年にかけて、南雲大将の遺族から寄贈された。
 撮影されたのは、Uボートが呉港に到着した43年8月から9月にかけて。ドイツの乗組員一同の集合写真のほか、呉近郊での海水浴、商店街の見物や大分・別府温泉めぐりなども。海水浴場では騎馬戦や腕相撲に興じる日独の海軍兵士の交流の様子を写している。







 当時、呉海軍警備隊にいた野村弘之さん(92)=広島市佐伯区=は1カ月余りドイツ潜水艦の警備についた。「ドイツの乗組員は20歳前半で、身ぶり手ぶりで話をした。仲良くなり、お互いにレコードを聴いたり食事を分けたりした」。Uボートの写真に「初めて見た。乗組員は別府に行くと言っていたが、ほんまじゃった」と驚いている。
 連合国側の激しい攻撃を受けて戦況が悪化する中で、同盟国ドイツと日本との間で行われていた重要物資や人員の輸送作戦は、潜水艦が頼みの綱となった。
 43年2月、ドイツのヒトラー総統は、日本海軍が将来、敵の交通破壊戦(商船への攻撃)を強化するという約束のもと、最新鋭の中型潜水艦2隻の譲渡を決めた。当時、ドイツ駐在の海軍代表委員で、帰国した野村直邦・中将(後に海軍大臣に就任)の著書「潜艦U―511号の運命」が明らかにしている。
 同書によると、U511号(日本名は呂号第500潜水艦)はドイツ乗員で、もう1隻のU1224号(同・呂号第501潜水艦)は日本人乗員で回航することになった。
 U511号は同年5月10日にフランス西部のロリアンを出港。大西洋から喜望峰、インド洋を経て同7月16日にマレー半島のペナン港に到着。同8月7日、呉港に着いた。同艦にはドイツ人の乗組員と技師計約50人のほか、日本人では野村中将とその付き添いの軍医が便乗したという。
 日本に譲渡されたU511号は詳細に調査されたが、工作技術が追いつかないなどの理由で量産を断念。海軍潜水学校の練習艦となり、戦後、日本海に沈められた。また、日本人乗員が回航したU1224号は44年5月、大西洋で撃沈された。



第1章 最新潜水艦 同盟の印

〈南雲長官の資料〉敵商船への攻撃 条件に
 ワシと鉤(かぎ)十字(ハーケンクロイツ)のマークが刻印された一枚の大皿(直径30センチ)が、呉市の入船山記念館にある。ハーケンクロイツは戦前、ナチスドイツの国章だった。
 寄贈されたのは四半世紀前だ。持ち主は、呉市に住んでいた旧海軍潜水隊員。同館によると、1943(昭和18)年8月7日、呉港に着いたドイツ潜水艦(Uボート)「U511号」の乗組員から友好の証しに受け取った品だという。乗組員の水兵帽につけたリボンや写真数枚も併せて贈られた。
 U511号はどういう目的で呉港にやってきたのだろうか。呉市史(第6巻)に、簡単な記述があった。「日独両国の技術交換の一環として譲渡をうけた中型潜水艦二隻のうちの一隻『U五一一号』が呉に回航されている」。これを手がかりに、Uボートを追った。
 取材を進めるうち、国立国会図書館(東京)の所蔵資料にU511号の写真がある、という話を耳にした。2012年3月、同館憲政資料室で「南雲忠一関係文書」に含まれる「独逸(どいつ)潜水艦呉寄港関係」「独逸潜水艦招待会」と題名のついた写真を閲覧した。撮影時期は43年で、計38枚。ほかに書簡や絵はがき、日記、講義ノートなど、資料の総数は355点ある。
 南雲忠一氏(後に海軍大将)は41年12月8日、第1航空艦隊司令長官として真珠湾を奇襲攻撃した。第3艦隊司令長官などを経て、43年6月から同10月まで呉鎮守府司令長官。その呉鎮守府時代に、呉港でU511号を出迎えた。写真資料は旧海軍が撮影し、南雲長官に記念に渡したとみられる。
 その後、中部太平洋方面艦隊司令長官となってサイパン島へ。44年7月、57歳で戦死する。関係文書は戦後、遺族が保管し、91〜93年に国会図書館に寄贈した。
 仲介役となった田中宏巳・帝京大教授(69)によると、南雲長官の長男は戦死。次男で防衛大学校教授などを務めた正さん(94年死去)の晩年、寄贈の相談を受けたという。田中さんは当時、防衛大学校教授で、正さんは同僚だった。
 「南雲さんはロンドン軍縮条約反対派(艦隊派)の強硬論者で、ミッドウェー海戦では負けて批判を受けたが、知られていない経歴の空白部分はいっぱいある。資料はそれを十分に埋めてくれるものだ」と話す。
 写真の裏には、撮影場所のメモ書きがある。江田島海水浴場(現・江田島市)では日本海軍の兵士らと騎馬戦やレスリング、腕相撲で対戦。大分・別府温泉では地獄めぐりをしている。ほかに日本側との懇親会の様子もあった。
 U511号は、日本が米英に宣戦布告した41年12月に完成。全長約77メートル、水中排水量約1200トン、48人乗り組み。43年2月、ドイツのヒトラー総統は同盟国の日本へ最新鋭の中型潜水艦2隻の譲渡を決める。最初に回航されたのがU511号。「ヒトラーの贈り物」といわれるが、譲渡には条件が付いていた。
 「インド洋で日本海軍が連合国側の商船を攻撃する通商破壊戦を進める」
 それが、ヒトラーの思惑だった・・・

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