社会・メディア
朝日新聞社

世界を変えた広島人の物語 カープ島からパラグアイ天守閣まで

初出:朝日新聞2013年1月1日〜1月11日
WEB新書発売:2013年1月18日
朝日新聞

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 パラオの無人島を国際的なダイビングスポットに変えた夫婦からソウルに広島焼きを広めたオタフクソースの社員、パラグアイに天守閣を築いてしまった養鶏業の会長まで、世界で活躍する広島人の姿を紹介する。それぞれの挑戦を続ける人たちを知ると、広島の県民性が浮かびあがり、広島が懐かしい人も、広島なんてと思っている人も、広島について語りたくなる。

◇第1章 南の海、カープ愛ランド
◇第2章 プノンペン、希望の家
◇第3章 広島焼きはソウルだ
◇第4章 自然と空間、設計自在
◇第5章 世界が注目、老舗の技
◇第6章 中米、教わった郷土愛
◇第7章 福山発デニムロード
◇第8章 南米、父に捧ぐ天守閣
◇第9章 パラグアイで故国の味
◇第10章 デニッシュ、海越えて


第1章 南の海、カープ愛ランド

◎無人島、リゾートに育む


 パラオ最大の街、コロールに近いマラカル島。40席ほどの「カープレストラン」は、赤いハイビスカスなどの草木に囲まれていた。
 「お昼、食べてないでしょ。食べて食べて」。約40年店を切り盛りする岸川浩子さん(75)は次々と料理を出してくれた。うどん、お好み焼き、コウモリのスープ、ヤシガニ。メニューには日本食やパラオの郷土料理が並ぶ。
 パラオに鯉(こい)はいない。カープと言えば一つはこのレストラン。もう一つは浩子さん、格(いたる)さん(77)夫婦が所有する「カープ島」だ。


 コロールから高速ボートで南西へ約40分。浩子さんが故郷・広島から来た46年前、無人だった島は、年間約1万人の観光客とダイバーが訪れる地になった。
    ◇
 夫の格さんは1935年、日本統治領時代のパラオで生まれ、戦後、父の出身地・佐賀県に移った。東京の大学卒業後の61年、広島市に仕事で来て、浩子さんと出会う。62年にパラオに戻り、5年後に浩子さんを迎えにきた。


 格さんはパラオで「伝説のダイバー」として知られるようになる。きっかけは65年、ジャックイブ・クストーとの出会い。深海のドキュメンタリー「沈黙の世界」でカンヌ国際映画祭の最高賞を受けたフランスの海洋探検家だ。
 「タンクを1本貸してくれないか」。格さんが支配人として働いていたホテルに、ひょろりとしたクストーは現れた。当時、潜るのは浅くて美しいサンゴ礁内が常識。だが、クストーは真っ黒な外洋付近で船を止めさせた。
 格さんは素潜りでクストーに続いた。水中ライトで海中を照らす。目に飛び込んできたのは、真っ赤なウミウチワ。暗く見えた海は、美しくカラフルだった。
 クストーは言った。「この海を大切にしなさい。ここには西太平洋の魚が全部いるから」
 格さんはパラオの海を隅々まで潜り始めた。ブルーコーナー、ブルーホール……。世界のダイバーが一度は潜りたいポイントを次々と発見した。
 パラオには今、年間10万人の観光客が訪れる。ダリン・デリオン政府観光局長は「岸川さんがダイビングを始める前、ほとんど無かった観光が今やこの国の基幹産業。功績は大きい」とたたえる。
 カープ島は、パラオ人だった格さんの母の一族が所有していた。週末、夫婦は小さな3人の娘を連れて訪れた。風にゆれる花々、白い砂浜、満天の星……。
 「ここを何かに使えないかしら」。浩子さんの提案で格さんが親族を説得し、所有権を得た。
 79年、友人らと手作りした3棟6部屋のコテージから「カープ・アイランド・リゾート」は始まった。今、コテージなど約30棟。宿泊客のスペイン人、アンドレス・ローデスさん(31)は「世界中で潜っているが、ここは最も好きな場所の一つ」と話した。
    ◇
 「12歳で母親を亡くしてから、広島でつらい思いをすることが多かった。パラオに来たのは、第二の人生を始めてもいいと思ったから」と浩子さんは言った。
 でも、食堂の名にはカープを選んだ。島の名も、巨人ファンの格さんにじゃんけんで勝ってつけた。心はカープを通じて広島とつながっていた。今も衛星放送でカープの試合をチェックする。
 「カープが私のビタミン。そして、おいしかったよ、と何十年も通ってくれる人がいる。広島に生まれ、そしてパラオに来て良かった」


第2章 プノンペン、希望の家

◎戦争の教訓、子の糧に


 カンボジアの首都プノンペン。オートバイやシクロ(自転車タクシー)が行き交う街の一角に、赤茶色のれんがが目をひく4階建ての「ひろしまハウス」がある。
 1階の教室で子どもたちが現地スタッフからクメール語や算数を学んでいた。2階は図書館。日本語や英語、パソコンの授業もある。


 「日本語を勉強して、将来は日本の会社で働きたい」とドラえもんのTシャツを着た中学3年、ピロム・ケムラー君(14)。路上で暮らしてコーラを売ったり、教師不足などで十分な教育が受けられなかったりする5〜18歳の約60人が通ってくる。
 広島市中区に住む国近京(けい)子さん(71)が発案し、2006年に完成した。「海外旅行の経験もない普通の主婦だったのにね」


    ◇
 1994年の広島アジア大会。カンボジアは内戦を経て、20年ぶりに国際大会に復帰した。選手団を支援する民間組織「ガンバレ・カンボジア・プロジェクト」が東京で発足。国近さんは知人に懇願され、活動に加わった。大会3カ月前の7月、仲間の約15人とマラソンの選考会を開くためカンボジアへ飛んだ。
 メンコをする男の子、スカートをパンツの中に入れて縄跳びをする女の子……。街は荒廃しても、子どもの目はキラキラしていた。被爆後の広島の情景が一気によみがえった。
 1945年8月6日。広島駅にいた母の背中で被爆した。3歳だった。被爆した父は46年亡くなった。
 小学生のころ、ぐにゃぐにゃのコーヒーカップをがれきから見つけ、進駐軍にあげると、チョコレートやガムをくれた。うれしくて母に見せた。でも、母は捨ててしまった。
 ある日、米国が文化交流の拠点にしていた広島アメリカ文化センターで1人、雨宿りをしていた。館長夫妻が「どうぞ」と招き入れてくれた。ピアノや蓄音機、花柄のテーブルクロス、紅茶とクッキー。おとぎの国のようだった。
 「親は被爆を背負って生きたけれど、子どもはのびのびしていた。カンボジアの子どもたちも同じ。無事に育って世界にはばたいて、と祈りに近い気持ちになりました」
 カンボジアにもセンターのような「家」を作れないか――。建築家の石山修武さん(68)に設計を頼み、仲間と寄付金を集めた。当時一つ約5〜10円のれんがを現地で購入し、広島市民らによる「れんが積みツアー」を開催。延べ2千人が参加した。建設費は計約4千万円。完成は着工の11年後だった。
    ◇
 国近さんが理事を務めるNPO「ひろしま・カンボジア市民交流会」(広島市)が資金や運営を支える。
 「復興した広島は、私たちのお手本です」。アジア大会で来日したカンボジア選手団が平和記念公園でひざまずき、涙した姿が国近さんには忘れられない。
 「原爆、ポル・ポトの大虐殺……。ハウスを20世紀の出来事を伝え、平和とは、幸せとは何かを考える場にしたい」。広島の復興をテーマに子どもの副読本を作った広島経済大の学生らと13年春、建物の「おそうじツアー」に行く。


第3章 広島焼きはソウルだ

◎庶民の味「世界中に」


 オタフクソース(広島市)の社員、洪輝星(ホンフィソン)さん(39)は広島から出張し、2012年12月19日、韓国・仁川(インチョン)のビルの一室に向かった。
 商談の相手は、約2千店の韓国風焼き鳥店を展開する大手飲食店チェーン常務の男性。5年前から何度も通い、「メニューに広島風お好み焼きを」と口説いてきた・・・

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世界を変えた広島人の物語 カープ島からパラグアイ天守閣まで
216円(税込)

パラオの無人島を国際的なダイビングスポットに変えた夫婦からソウルに広島焼きを広めたオタフクソースの社員、パラグアイに天守閣を築いてしまった養鶏業の会長まで、世界で活躍する広島人の姿を紹介する。それぞれの挑戦を続ける人たちを知ると、広島の県民性が浮かびあがり、広島が懐かしい人も、広島なんてと思っている人も、広島について語りたくなる。[掲載]朝日新聞(2013年1月1日〜1月11日、12500字)

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