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文化・芸能
朝日新聞社

アーティストはなぜ植田正治の写真にひかれるのか?

初出:2013年1月1日〜1月12日
WEB新書発売:2013年1月25日
朝日新聞

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 世界的に評価された写真家・植田正治(1913〜2000)は、今も多くのアーティストが敬愛している。生誕100年を機に、「植田調」とも呼ばれた写真世界の魅力を紹介する。「全てを受け入れて拒絶しない優しさと、美を追究する厳しさ、そしてユーモアのある無邪気さ」にひかれたと話す俳優の佐野史郎さんやミュージシャンの石橋凌さんらが、その魅力を語り尽くす。

◇第1章 写真する それがスタイル
◇第2章 少女四態 正ちゃんの演出
◇第3章 20年越し 夢見た写真絵本
◇第4章 家族と地元 美と愛の証し
◇第5章 「救われる いつの時代も」
◇第6章 生き続ける「お父ちゃん」
◇第7章 〈番外編〉境町大火の猛威 記録






 山陰に住み、山陰を撮り続けた写真家がいる。植田正治(1913〜2000)。鳥取砂丘をホリゾント(背景)にした作品で世界的な名声を得てもなお、生涯をアマチュアとして通し、ふるさとを離れることはなかった。レンズを通して自己表現するということを「写真する」と表現した植田。その影響は写真の世界にとどまらない。生誕100年を機に、彼の「レンズの記憶」をたどる。







第1章 写真する それがスタイル/心に響く力 迷い吹き飛んだ

石橋凌・俳優/ミュージシャン


 俳優でミュージシャンの石橋凌は植田正治を「先生」と呼ぶ。同じ「表現者」としてその生き様に触れ、心が揺れた。
 出会いは1985年。石橋がボーカルをしていたロックバンドARB(エーアールビー)のアルバムのジャケット撮影がきっかけだった。時代はちょうどバブルの入り口。お金や物質的価値に傾倒し、世間はどこか浮かれていた。親殺しに子殺し。不可解な事件も続いた。「戦後から40年、いったいどこで道を間違えてしまったのか。他人のことを思いやる日本人の美徳はどこに行ってしまったのか」。自問自答を続けていたとき、植田の作品に出会った。
 目にとまったのは、夫婦と4人の子どもたちが写る「パパとママとコドモたち」。植田自身は砂浜でわが子を肩車し、カメラ目線で笑う。家族の記念写真のようでもあり、夢の中を写したようでもある。植田の人柄がにじみ出ているようだった。「見た瞬間に、ほっとしたんだよね。どこか温かく、和まされ、いやされたというか。こんな写真を撮る人がいたんだなあ、と勇気づけられもした」
 鳥取砂丘でのジャケット写真の撮影時、植田は写真の印象のままだった。70歳を超えているとは思えないほど、おしゃれで活動的。ブルージーンズにTシャツ姿で、撮影中ににわか雨が降れば、「ごめん。さっき砂丘の裏側にいって用を足してきた」と話し、水洗トイレのひもを引くまねごともする。笑いで現場を和ませる。力で人を動かすのでなく、温かく包み込む。モニターを見ているときでさえ、ちょっと風が吹けば首から提げた小さなカメラで前のめりになって風紋を写真に収めた。
 広大な砂丘に傘だけをぽつんと置いたり、余白をうまく利用したりする作風は「植田調」と評され、海外でも高く評価された。しかし、植田本人は生涯アマチュアを貫き、活動の拠点を鳥取に置き続けた。「ここにね、風が吹くと、風紋といって砂の模様が毎秒変わる。砂丘の形も変わっていく。こんな普遍的な舞台はないんだよ。だから僕は東京に行く必要がなかったんだ」。砂丘の魅力をこう話す植田の言葉が今も石橋の耳に残っている。
 言葉の裏には「自分は好きなことをやるんだ」「撮りたいものしか撮らない」。そんな植田の気骨がにじんでいるように思えた。「アマチュアを貫かれたのも、先生流のスタイル。あえてアマチュアリズムとおっしゃるが、そこに本物のプロの姿を見た」
 人柄にも魅了され、「先生にシャッターを切ってもらう瞬間を結婚の証しにしたかった」と女優原田美枝子との結婚写真の撮影も依頼。撮影場所には、思い出の鳥取砂丘を選んだ。その写真もいかにも植田らしい。空だけを背景に、モーニング姿の石橋の腕に、ウエディングドレスをまとった原田がそっと手を添える。何も無い所からのスタート。砂丘での撮影は、そんな意味も込められていた。
 「先生は『写真する』と表現された。『食事する』とか『会話する』という生活と同じ線上で写真を撮られていた。無意識のうちに、すべてが『写真する』だった」。植田との出会いで迷いは吹き飛んだ。「多くを語らなくても、人ってわかり合える。先生の写真は押しつけではない、なにかこう、ふっと笑えて、心に響く力がある。それは音楽や芝居をしてても同じ。その生き様、神髄。どの時代にも通じる普遍的なものだった」。進むべき道が見えた気がした。


第2章 少女四態 正ちゃんの演出/色あせない 70年以上前の夏


 境水道大橋へ続く境港市昭和町の進入路付近に差し掛かると、佐々木美弥子さん(84)は「このあたり。当時は弓ケ浜からずっと、砂浜が続いていたのよ」と教えてくれた。植田正治の代表作の一つ「少女四態」の撮影地点。いまは埋め立て地に水産会社の倉庫や建物が並ぶが、かつては、真っ白な砂地が広がる海岸だった。
 「確か、お盆前。何せ70年以上も前のことだから」。昭和14(1939)年真夏の夕方。天気が良かったことだけは覚えている。
 蕎麦(そば)屋のみやちゃんこと、美弥子さんはいつものように近所の幼なじみ、料亭のたづちゃん、せんべい屋のえっちゃん、八百屋のしずちゃんと連れだって家を出て、「浜の灘」と呼んだ約1キロ先の海岸へ手かごを持って駆け出した。
 「みな商売の家の子。家が忙しくて、夕飯のお使いが日課だったわね」と、たづちゃんこと、田多多津子さん(87)。「あなたはいいわよ。ワンピースだから。私はいつも裸足で、シミーズ。恥ずかしかった」と美弥子さん。
 海岸では毎日、地引き網で魚を取っており、市場へ出されない余り物が安く買えた。夏場だと、ボラが4、5匹で30銭。刺し身か洗いが夕飯の食卓を飾る。その食材を手にするまでの1時間ほどが、少女たちの自由時間でもあった。
 その日も砂浜で遊んでいたら、写真館を開いている顔なじみの「正ちゃん」がカメラをぶら下げてやってきた。「写真をとっちゃる。そこに並んで」
 母親同士がいとこのみやちゃんには気兼ねなく、「おまえは後ろ向いて、手をかざせ」。4人の中で一番年配だったたづちゃんは当時14歳。「写真を撮られるのが恥ずかしくて」と、ふくらみだした胸をさっと右腕で隠そうとした。「あっ、それがいい」とそのままポーズを取らされた。残る2人も、立たされたり、横向きに座らされたり。買った魚を持ち帰るための手かごのうちで、一番上等なのを真ん中に置き、シャッターを切ること3、4回。「こっち向いて」「あっち向いて」。ほんの数分のことだった。
 「3人で写真を撮ると、真ん中の子が早死にすると気にした時代。4人いたから、安心したことを覚えている」と多津子さんは言う。「専門的なことはよくわからないけど、あれが演出写真だったのね」と美弥子さん。まさか植田の出世作になるとは、思いもつかないことだった・・・

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