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朝日新聞社

インターネットをつくった人々 「打倒NTT」への長い道

初出:2012年10月29日〜12月24日
WEB新書発売:2013年2月8日
朝日新聞

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 日本初のインターネットプロバイダーであるIIJの船出は順風満帆なものではなかった。大企業からの出資は断られ、銀行の融資も得られず、しかも郵政省(現総務省)はいつまでたっても事業認可をしない。何度も資金繰りに追い詰められ、それでも夢物語だったインターネットを日本に根付かせた鈴木幸一社長がその奮闘を振り返る。

◇第1章 国の認可出ず 直談判
◇第2章 ついに認可が出た
◇第3章 本場米国で株上場
◇第4章 テロ後 突然の電話
◇第5章 悲願の提携、破談に
◇第6章 ゆずれぬ夢追って


第1章 国の認可出ず 直談判

鈴木幸一・IIJ社長

 既存の秩序を壊し、新しい世界を創る先頭に立つ者には、すさまじいエネルギーがいる。日本でインターネットの宣教師役を果たし、人々のネット利用に道をひらいた鈴木幸一氏もそうだった。その強烈な個性と信念がなければ、日本でのネット普及は何年も遅れただろう。栄光と挫折の物語を、証言でたどる。
 国内初のインターネットプロバイダー(接続事業者)であるIIJが発足した1992年12月3日は、午後から冷たい雨が降っていた。夕刻、東京・溜池(ためいけ)にある解体予定のおんぼろビル1階のオフィスに、10人ほどのメンバーが集まった。私以外は、大学や企業でネット研究に携わってきたエンジニアの若き精鋭たちだ。宅配ピザをつまみに缶ビールで船出を祝った。
 100年以上続く電話という通信インフラに代わり、ネットは必ず新たな基幹インフラになる。私たちはそう信じた。しかもその先頭にIIJが立つのだ、と。
 だが何せメンバーの自己資金を中心に1800万円ほどの資本で始める小さな企業だ。先行きは、やはり不安だった。
 私のネットとの出会いは学生時代の翻訳のアルバイトで読んだダグラス・エンゲルバートの実験の雑誌記事。そこにはその後、ITと呼ばれる領域の概念がすでにほとんどあった。興奮して読んだ記憶がある。
 35歳までのサラリーマン時代も、その後のフリーコンサルタント時代もコンピューターのソフトウエアの世界は身近にあった。いち早くオープンシステムを提唱して「ソフトウエアの教祖」と呼ばれた岸田孝一さん(現SRA最高顧問)が酒を飲みながら、いろいろと教えてくれた。



◎妻帯者は参加辞退
 ある日、かねて親交のあった村井純・現慶応大教授と深瀬弘恭氏(当時アスキー社員、後にIIJ会長)が訪ねてきた。「インターネットの商用サービスを始めたい。一緒にやってほしい」と言う。
 彼らは大学間ネットワークを実現させ、「ワイド」というネット導入プロジェクトにも取り組んでいた。それを事業化したいというのだ。「10億円単位で出資してくれるはずの大企業と話もついている」と言う。「それなら立ち上げまで協力するよ」と引き受けた。
 実際には出資してくれる企業はなかった。当時、インターネットを理解する人はまったくいなかった。一銭も無きに等しい状況から日本初のプロバイダーをつくる試みが始まった。
 設立メンバーに内定していた者でも、妻帯者は先行きが不安だとわかると参加を取りやめた。だから集まったのは汚い身なりの20代の独身ばかり。それでも、みなネットの世界では名の知れたエンジニアだった。
 《現在は、プロバイダーへの参入は届け出制。だが当時の郵政省(現総務省)はネット事業も電話事業の一種とみなし、国際通信サービスの認可が必要だという立場だった。》
 心配が現実になった。半年たち1年たっても、郵政省からサービス開始の許可がおりないのだ。
 みな毎日昼過ぎに出社していろいろ開発していた。だが、サービス開始のめどが立たなくては不安が先に立つ。収入はネットのセミナー開催による受講料くらいで、たいした稼ぎにならない。資本金は2カ月ほどで底をついた。社員には諦めムードも漂ってきたが、私は逆に、なんとしてもやるぞ、と意地になっていた。



◎私財売り給与払う
 金融機関にいる友人を頼っても、融資は引き出せない。私の個人資産を売ったり担保にしたりして、何とか資金繰りをした。毎月の給料日には私の個人口座から現金を引き出し、20万〜30万円ずつ茶封筒に入れ、社員一人ずつに手渡した。
 知り合いのいる大企業には片っ端から出資を頼みに行った。だが、役所から事業開始の認可さえおりていない企業への出資など、だれも引き受けてくれない。
 ある鉄鋼メーカーの部長からは「鈴木さん、インターネットを企業が使うようになるなんて夢物語。もしそんな時代がきたらスッポンポンで銀座を歩いてやるよ」と言われた。悔しいやら情けないやら。あれは一生、忘れない。
 積み上げたら天井に届くほど出資を求める書類を作ったが、色よい返事はどこからもない。出資を打診してきたのは欧米の投資ファンドと通信会社の2社だけ。しかし日本の資本で勝負したかったので、断った。
 次第に訪ねる先もなくなった。朝から喫茶店で時間を潰す。月末になると社員たちが誰ともなしに「今月の給料はいくらくらい出るかな」とつぶやく。それを聞きたくなかった。
 事業認可を出さないなら、郵政省との訴訟も辞さない。そんな気持ちにもなってきた。
 設立から1年後の93年12月、私は知己の他省幹部に口利きを頼み、正月休み明け早々に担当する郵政省幹部との面談をセットしてもらった。その知己が郵政省幹部の高校の先輩だった。
 1月4日、郵政省幹部と会って、単刀直入にこう切り出した。
 「どうすれば認可が得られますか。条件を詰めたい」
 個人資産も底をつきはじめ、自己破産のおそれもあった。いよいよ覚悟して、私は最後の勝負に出た。

□〈インターネットの誕生〉 インターネットはもともと1960年代に米国防総省が軍事用として開発に着手したのが最初。同省の高等研究計画局(ARPA)のもとでつくられた研究用の「ARPA(アーパ)ネット」が原型となった。80年代後半、これが民間に開放され、90年代に商業用の接続サービスが本格的に登場する基盤となった。



第2章 ついに認可が出た

 日本初のインターネット事業をめざして1年。会社につぎ込む個人資産も底をつきはじめ、1993年末には自己破産も覚悟した・・・

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