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朝日新聞社

邪馬台国と卑弥呼 古代史最大の謎に魅せられた人たち

初出:2013年1月15日〜2月16日
WEB新書発売:2013年2月22日
朝日新聞

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 邪馬台国の所在地は、九州か近畿か? 「魏志倭人伝」にわずかに記されているだけの女王・卑弥呼の実態を含め、古代史最大の謎は現在も多くの歴史ファンを引きつけている。盲目の詩人・宮崎康平やミステリー作家・松本清張らが作った戦後の邪馬台国ブームから最新の研究成果までを紹介し、邪馬台国論争を担った人たちの思いを伝える。

◇第1章 卑弥呼が舞い降りた
◇第2章 二人で一人、幻を追う
◇第3章 作家もとりこになった
◇第4章 餓鬼に巫女に、変幻自在
◇第5章 エロスこそ造形の源泉
◇第6章 時にライバル、時に友
◇第7章 木よ花よ、教えておくれ
◇第8章 掘ってつないで40年
◇第9章 あとはお前に任せたぞ
◇第10章 2000年前と語り続ける


第1章 卑弥呼が舞い降りた

 謎は深いほどおもしろい。
 まして自分の国のルーツにかかわることならば。
 かつて邪馬台国(やまたいこく)という国があった。2〜3世紀のことだ。朝鮮半島から海を渡り、陸路の旅を経てたどり着いた地で女王卑弥呼(ひみこ)が治めていた――。古代中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」はそう記す。
 だが、記述はわずかに約2千字。所在地は九州か、近畿か。江戸時代から論争が続き、今も決着していない。
 卑弥呼についても「鬼道(きどう)をよくする」、呪術者とみられていたことぐらいしかわかっていない。
    ◇
 1974年、女優の岩下志麻(いわしたしま)(72)は悩んでいた。
 夫で映画監督の篠田正浩(しのだまさひろ)(81)から「映画『卑弥呼』で主演をやってほしい」と求められていた。

 「卑弥呼は神の言葉を聞く女性らしい。それを体でどう表現したらいいの?」
 演技の参考資料といっても、倭人伝以外にない。「入り口が見えなかった」と岩下は当時を振り返る。
 いっそのこと、実際に神がかりを体験してみようか。
 そう思い立った岩下は、知人の女性2人と連れ立ち、静岡の女性霊媒師を訪ねた。
 畳敷きのあまり広くない部屋だったと記憶している。3人が霊媒師の前に座ると、目を閉じて頭を下げるよう求められた。いわれた通りにしていると、何やら呪文が始まった。霊媒師の両脇にいた2人は畳をかきむしり、体をぶるぶると震わせ始めた。
 岩下自身もなぜか激しい頭痛に襲われながら、薄目を開けて霊媒師のしぐさをしっかり観察した。
 「卑弥呼が神の託宣を伝える時の演技が見えた」
 手応えを感じた。時間にして二、三十分だったろうか。岩下らはぐったりしてしばらくの間立ち上がれなかった。
 卑弥呼に神が宿る瞬間をどう演じるか。岩下は口を丸く大きく開けてみた。目に見えない何かが口から入り込んでくるのではないか。そう考えたからだ。


 撮影中のことだ。
 帰宅した岩下が生まれたばかりの長女を抱こうとすると、激しく泣かれた。
 演じた卑弥呼の妖気がまだ岩下に漂っていたのかもしれない。岩下はベビーシッターを雇い、長女を自分からしばらく遠ざけた。
 「初めて授かった子を抱く、女性として幸せな瞬間なのに。とってもつらかった」
    ◇
 撮影の間、篠田は岩下に目立った演技指導をした覚えがない。
 「勝手にやってもらった。女優は存在自体がシャーマン(呪術者)だからね」
 篠田は14歳で敗戦を迎えた。「戦争中は皇国史観を教えられた。天皇の名前が登場しない邪馬台国のことなんて、戦後になるまで知らなかったんだ」


 皇国史観を押しつけた人々に対し、篠田はいまも許せないと思っている。その一方で、女王が統治した国が古代日本にあったのなら映画にしてみたいとも思い続けた。
 戦後、卑弥呼は木暮実千代(こぐれみちよ)や吉永小百合(よしながさゆり)(67)らも映画の中で演じている。だが、主人公に据えた作品は篠田が撮った1本だけだという。
 そこまで「卑弥呼」にのめり込んだ理由を、篠田は著書「闇の中の安息」に書いた。
 「私は、志麻という女優をとおして(略)、自分の中で日本人とは何か、という問いかけをしているようなところがある」
 その日本人にとって、邪馬台国とはどんな存在なのだろう。古代史上最大の謎に魅了された人々を訪ねた。


第2章 二人で一人、幻を追う

 盲目の詩人、宮崎康平(みやざきこうへい)の著書「まぼろしの邪馬台国」は、昭和40年代の邪馬台国ブームに火をつけたベストセラーとして名高い。
 長崎県島原に生まれた。神話を否定して弾圧を受けた古代史家、津田左右吉(つだそうきち)の講義を早大で聴き、邪馬台国への思いを募らせていた。
 郷里で島原鉄道の重役を務める傍ら、文芸誌「九州文学」で創作活動を展開した。そんななか、康平は邪馬台国探しに没頭し始める。
 自己主張が強くて反骨。かんしゃく持ちで猜疑心(さいぎしん)が強く、なんでも自分中心じゃないと気が済まない。過労で失明した後も、康平の難しい性格は変わらなかった。先妻は子供を残して逃げ出し、その後、迎えたのが福岡の放送劇団員で声優をしていた和子(かずこ)(83)だった。
 一回り12歳下の、同じ5月7日生まれ。「俺の嫁ごになるようできとる」と康平に言わしめ、仲人は「九州文学」を育てた作家、火野葦平(ひのあしへい)だった。


 和子は盲目の夫の手を引き、その目となり足となって九州中の遺跡や古墳をめぐった。熊本の阿蘇、宇土半島、福岡の糸島半島、佐賀の唐津……。そして康平は、故郷島原を含む長崎諫早周辺に邪馬台国があったと確信する。
 和子は「魏志倭人伝」はもちろん、「古事記」や「日本書紀」などを数え切れないほど読み聞かせ、夫の発想を記録した。
 ボール紙を切って海岸線に、ひもを川に見立てて立体的な九州の地図もこしらえた。康平はそれに触れながら、手の感覚を通じて頭の中に浮かぶ地図と、倭人伝が記す邪馬台国への道のりを重ねてそのありかを探った。
 このエピソードは2008年、堤幸彦(つつみゆきひこ)(57)のメガホンで映画化され、竹中直人(たけなかなおと)(56)と吉永小百合(よしながさゆり)(67)がむつまじい夫婦愛を演じた。
 といっても、実際には絵に描いたような夫唱婦随でもなかったようだ。「私が勝手に出歩くのも嫌う人でね」と和子。「でも、自分と全然違った世界の人で、話題が多くて私の好奇心を満たしてくれる存在でした。話してておもしろい男って、なかなかいないものですよ」
 二人で一人。「まぼろしの邪馬台国」は、どちらが欠けても生まれなかったのだ。
 康平は作曲家古関裕而(こせきゆうじ)と組み、校歌などをいくつも作った。「おどみゃ島原の」で始まる哀愁を帯びた「島原の子守唄」も彼の作だ。乳飲み子を抱えて立ち尽くす康平の姿が浮かぶ。早大の先輩で演劇仲間だった森繁久弥(もりしげひさや)もよく舞台で歌った。


 康平の家に、バイオリンを抱えた少年が出入りしていた。同じ長崎出身の歌手さだまさし(60)である。
 さだの父親と深い交友があった康平は、さだを「まあ坊」と呼んでかわいがった。
 「小さい頃は怖かったなあ。でも、遠い親戚のおじさんみたいでした」
 1972年、さだがフォークデュオ「グレープ」を結成すると、康平は地元マスコミへの売り込みに一肌脱ぎながら、長崎人なんだから長崎らしい歌を作れと叱咤(しった)した。長崎の風物詩を描く「精霊(しょうろう)流し」は、そうして生まれた。
 「言葉に出して読めないような詩だったら書くな。自分の詩を声に出して読んでいる気で歌えって」。いにしえの奈良の空気をまとう曲「まほろば」の歌詞について、康平は楽屋で「俺もあんなのを書きたかった。おまえは俺を超えた」と喜んだという。
 80年、康平死去。最後の電話は自分のコンサートチケットの割り振りだったと、さだは聞いている。翌年のアルバム「うつろひ」に「邪馬臺(やまたい)」を収めた。「盲(めし)いた詩人」として曲中に登場する康平へのオマージュである。
 そうそう、あのヒット曲「関白宣言」のひな型は、どうやら康平と和子らしい。


第3章 作家もとりこになった

 社会派ミステリーの巨人、松本清張(まつもとせいちょう)は「まぼろしの邪馬台国」の宮崎康平(みやざきこうへい)と並び称される戦後の邪馬台国ブームの立役者だった。
 1967年、第1回の吉川英治文化賞の受賞者が康平、文学賞が清張に決まった。
 授賞式で、清張は康平に開口一番、「印税が全部、自分のものと思ったらダメだよ。税金に持って行かれるんだよ」と話しかけた。康平の妻、和子(かずこ)(83)は、清張のねぎらいとも冗談ともつかぬ口調を覚えている。
 ときに「清張史観」と呼ばれるほど、清張には古代史モノが多い。「断碑」や「石の骨」では在野の考古学者の悲劇を、「陸行水行」では邪馬台国を扱った。
 吉川文学賞受賞の前年からは「古代史疑」の連載を開始し、邪馬台国への探求を本格化させていた。
 その根底に流れるのは、ジャーナリスティックな批判精神だ。先の康平への一言は、ドラマチックに、ときに感傷的に邪馬台国への思いをつづった康平をライバルと認めたうえでの牽制(けんせい)だったのか。


 文芸春秋の編集者として清張と二人三脚で歩んだ北九州市立松本清張記念館長、藤井康栄(ふじいやすえ)(78)は「古代史へののめり込み方はすごかった」と振り返る。
 古い論文や専門書を読み込み、学者に電話をかけたり手紙を書いたりして貪欲(どんよく)に知識を吸収した。長電話の相手はほとんど古代史関係者だったという。
 藤井は現代史の闇を扱った「昭和史発掘」の取材で、清張の手足となって奔走した。「古代史を一緒にやろうと誘われたけれど、私は無理ですよと断った。それがかなりご不満だったみたい。『あんたはロマンチストじゃないねえ』って。一方で、他人に調べさせるなんてもったいないとも思っていたようです」
 清張は朝日新聞西部本社(北九州市)時代から暇を見つけては遺跡を訪ねた。推理作家として名をなした後も、遺跡巡りは続いた。
 出張のたびに予約した航空便を変更したので、航空会社に煙たがられた。「まだ見てなかった、もう一度見たい、って。予定通りの便に乗ったことがほとんどないほどね」
 そうして導き出した清張独自の邪馬台国九州説は、市民を巻き込む空前のブームへの導火線となっていく。
    ◇
 女王卑弥呼は、古今の小説家にインスピレーションを与えてきた。横光利一(よこみつりいち)の「日輪」しかり、黒岩重吾(くろいわじゅうご)の「鬼道の女王 卑弥呼」しかり。
 2012年夏刊行されたばかりの帚木蓬生(ははきぎほうせい)(65)著「日御子」も、そうだ。


 帚木は福岡県在住。精神科医と作家の二足のわらじを履く。以前から編集者に「邪馬台国やりませんか」と水を向けられてはいたが、その気はなかった。
 ところが数年前、講演に訪れた奈良で、学者は九分九厘、邪馬台国は近畿だと思っているという話を耳にする・・・

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