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朝日新聞社

プロメテウスの罠〔25〕 海鷹丸が来た「汚染の流れ見えた!」

初出:2013年2月13日〜3月5日
WEB新書発売:2013年3月15日
朝日新聞

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 福島県いわき市の漁師は困惑していた。海や魚の放射能汚染がどんな規模なのか全くわからなかったからだ。そんな折、南に位置する北茨城で魚から高い数値の放射性物質が検出された。さらに原発前の海からはすさまじい数値の魚が……。調査する舟も検出する機器もなかった地元水産試験場と舟を提供した大学とのハードな共同調査と、1968年の米軍爆撃機墜落によるグリーンランドの放射能汚染事故を重ねつつ、過酷事故がもたらした海に生きる人々の苦悩を追う。

◇第1章 一緒に調べましょう
◇第2章 学生は親の同意書を
◇第3章 魚に奇妙なばらつき
◇第4章 夜、陸の暗さに驚いた
◇第5章 北茨城で検出された
◇第6章 思っていたほどでは
◇第7章 とんでもない数値が
◇第8章 待てよ、海流がある
◇第9章 北極に落ちた光の筋
◇第10章 奇形のアザラシ見た
◇第11章 黒い砂まいて沈めた
◇第12章 汚れたエサ食べ続け
◇第13章 検査は1万を超えた
◇第14章 定説にとらわれるな
◇第15章 汚染の流れ、見えた
◇第16章 夜通しの測定作業
◇第17章 やっぱり、うまいな
◇第18章 長い時間を背負う
◇第19章 メバルの腹に発信機
◇第20章 「お化け」が出た
◇第21章 すべてを記録したい


第1章 一緒に調べましょう

 いわき市小名浜にある福島県水産試験場は、2011年3月11日の大震災で調査船を失った。
 主力の「いわき丸」(159トン)は津波で沈没した。水深100〜500メートルの八つの定点で毎月、底引き網で魚を取る。海水温や塩分濃度は、県北から県南の沿岸3カ所を起点に東へ、沖合370キロまでの広い範囲で採取し、調査していた。
 小さめの「拓水(たくすい)」(30トン)は、津波の引き潮で船底をこすって壊れた。修理しても、調査できるのは水深10〜50メートルの沿岸だけだ。
 試験場長の五十嵐敏(いがらしさとし)(59)は焦っていた。
 原発からまき散らされた放射性物質、流出した汚染水は、この海にすむ魚たちにどんな影響を与えているのか。いま調査が必要なのに、できない。それに、放射能はまるで専門外、検出器も技術もないのだ。
 試験場から見渡せる海は静かだった。漁に出る船がない。貨物船も、調査船も来ない。
 「震災後3カ月半、船が行き交う光景を見ていなかった。あんなことは初めてでした」
 そんな五十嵐のところに6月、「何か私たちにできることはないでしょうか」と、東京海洋大教授の石丸隆(いしまるたかし)(64)がやって来た。
 「うちの大学の船を出して一緒に調べましょう」
 跳び上がりたい思いだった。
 7月4日、白い船が小名浜港に現れた。東京海洋大の練習船「海鷹丸(うみたかまる)」(1886トン)だった。


 午後2時。気温27度、夏の日差しがじりじり照りつける。全長93メートルの海鷹丸は、応急処置で復旧したばかりの岸壁に接岸した。
 「でかいなあ」。見上げる五十嵐には救世主のように思えた。
 タラップを下りてきた石丸が、試験場職員の中に五十嵐を見つけ、まっすぐに近寄り、手を差し出した。
 「ありがとうございます」。五十嵐は両手でぎゅっと握り返した。
 岸壁には冷凍用の箱が並んでいた。事前に漁師たちが漁船を出し、底引き網で取ってきてくれた魚だ。タラ、カニ、タコからヒトデ、イソギンチャクまで。その箱を、バケツリレーで海鷹丸に運び込んだ。放射能を調べてもらうためだった。


第2章 学生は親の同意書を

 「魚がどうなっているのか調べたいのに、その手段がない」――。
 東京海洋大教授の石丸隆が、福島県水産試験場の嘆きを聞いたのは2011年5月のことだった。
 船を失って魚や海水をとりに行けない。漁師に魚をとってきてもらっても、放射能検出器がない。
 文部科学省は海水をモニタリングし、茨城や千葉など各県も漁獲用の魚を調べ始めた。
 だが高濃度の放射能汚染水が漏れたというのに、海水や魚だけでいいのか。プランクトンや海底生物、魚を取りまく環境、生態系全体をみるべきではないのか。
 試験場長の五十嵐敏が考えていたことと石丸の思いは同じだった。それが海鷹丸の派遣につながった。
 7月1日朝9時、海鷹丸は東京・豊海水産埠頭(ふとう)を出港した。福島の海への緊急航海だ。
 石丸の胸ポケットには線量計が入っていた。甲板の一番高い所、百葉箱の中にも放射能検出器を入れた。
 事故後、福島沿岸に近づいた調査船はまだなかった。どれほど放射能の危険があるのか。海上は? 海水は? 船が汚染されたらどうする?
 わからないことだらけ。不安は大きかった。
 研究者や学者は志願した者だけに限った。教授の神田穣太(かんだじょうた)(53)ら海洋環境の研究者たち、放射線関係施設の技官、そして「行きたい」と申し出た学生たちだ。
 学生には「親の同意書をとってきてほしい」と用紙を渡した。船員にも危険を説明して意思を確認した。
 地元の試験場からも2人が乗船した。1人は平川直人(ひらかわなおと)(32)。
 平川はいわき市で生まれ育った。東京海洋大の大学院で魚類学を専攻していた。石丸が6月に試験場を訪れたとき、乗船したいと伝えた。
 職場では若手で、まだ名乗り出られる立場ではなかった。しかし石丸からそのことを聞いた場長の五十嵐は、平川を快く送り出した。
 「私たちの海の調査をしてもらうのだから、私たちの職員も出さなくては。それに、彼は海鷹丸をよく知っているし」
 平川は大学院時代、海鷹丸には何度も乗っている。
 博士課程を終えて、北海道・釧路市の水産総合研究センターに就職。1年後の09年春、福島県の採用試験を受けて試験場に入った。
 学生として乗っていた船に、今度は研究者として乗り込むことになった。


第3章 魚に奇妙なばらつき

 2011年7月1日、福島沖に向けて出港した海鷹丸の船内で、ただちに打ち合わせが始まった。
 緊急航海の期間は7月1〜8日。目的は海水や海底の泥の採取、魚のほか、海底生物やプランクトンも調べる。
 魚については、茨城や千葉など各県の調査結果が集まり始めていた。奇妙なのは、結果のばらつきが多いことだ。海水の放射能濃度は時間とともに下がっているのに、魚からは高い数値が不連続に現れるのだ。
 「魚をとりまく環境を見なくてはだめだ。えさとなる生物も調べる必要がある」
 調査も大切だが、教授の石丸隆にとっては、乗員の安全確保が重大事だった。海上の放射線量は分かっていなかった。
 船内研究室の床や机は白い紙を隙間なく貼った。裏はポリエチレンが貼られ、汚染水の浸透を防ぐ特殊な紙だ。甲板には灰色のビニールシートを敷いた。
 「サンプルを持ち歩くときはシートの上だけを歩くこと」「甲板から船内の研究室に入る時はカッパと長靴は脱ぐこと」「居住区に入る時はさらに靴を履き替えること」――。ルールを細かく決めた。
 2日未明、福島沖の最初の観測点に着いた。船内も外も線量計の数値は平常だった。日の出とともに、採水調査から始まった。
 夜7時、いわき市の新舞子浜が1〜2キロ先に見える地点で錨(いかり)を下ろした。採泥器を海へ下ろすと、海底の泥を掘って、ゆっくり上がって来る。全員が離れて待機した。
 「まず年長者から行こう」。石丸ら教授陣が装置に近づく。サーベイメーターを持った2人が続く。
 カッパにゴム手袋、長靴には高密度ポリエチレン不織布の白い靴カバー。数値を見ながらゆっくり進む。石丸と神田穣太、生物海洋学が専門の山口征矢(やまぐちゆくや)(67)が装置を押さえ、2人が前後左右から線量を測る。
 「大丈夫だ、来てもいいぞ」
 石丸が合図した。
 翌朝、沖に出て大きな網を下ろして海底をさらう。引き揚げると、ゴカイや泥など、ごちゃまぜに包み込んだ網がワイヤの先に現れた。
 また先陣がサーベイメーターを手に近づく。同じことが、網や機器が上がるたびに繰り返された。
 カッパに長靴、ヘルメットと救命胴衣。気温25度、強い夏の日差しが照りつける。下着が汗まみれになり、肌にへばりついた。


第4章 夜、陸の暗さに驚いた

 2011年7月1〜8日。
 東京海洋大練習船「海鷹丸」の緊急航海の8日間、研究者、学生、乗員たちは寝る間もないほどだった。
 福島沖約135キロから北緯37度線に沿い、いわき市の塩屋埼灯台に向かって航行し、その線上の9地点で海水を採取する。
 続いて50キロの沖合を北緯36度55分の線に沿って小名浜港に向かい、4地点で生物を採る。
 大きな網を海に下ろして走り、こし取るようにプランクトンや小さな魚や生物を捕まえ、選別する。
 別のポイントまで走る。そこでまた捕獲器が下ろされる。オキアミ、ゴカイ、ヒトデ……。数ミリの小さい生物までより分ける。それが早朝から夜まで繰り返された。


 夜、いかりを下ろすと、助教の内田圭一(うちだけいいち)(40)たちは、船の明かりに集まって来る魚を釣った。イワシ、サバ、イカ、アジ……。
 6日午後10時ごろ、竿(さお)先がぐっと引き込まれた。「こりゃでかいぞ!」
 糸をたぐると50センチほどの魚が上がってきた。「ギンザケじゃないか」
 福島の海にいるはずはない。
 「ヒレの先が丸い。養殖ものだ」
 「津波で宮城のいけすが流されたって。そのとき逃げたやつだ」
 「だったら、原発の前を泳いできたことになるぞ」
 翌日午前3時半過ぎまで、32匹も釣りあげた。
 福島県水産試験場から派遣された平川直人の手帳には、当時の厳しい日程がびっしり書き込まれている。
 「午前3時50分起床」とある。日の出とともに調査は始まる。もちろん朝食前だ。
 「夢中だったので、眠いとか疲れたとか、そんなことを感じているひまはありませんでした」
 そんな慌ただしさの中、平川がはっとしたことがある。
 夜の闇がおり、甲板からぼんやり陸の方を眺めた。そのあまりの暗さに驚いた。
 いわき市の塩屋埼灯台のあたりだ。子供のころに遊んだ海水浴場があり、民宿や民家も多い地区だ。なのに光が見えない。ときおり車のヘッドライトが、細い光の筋を描くだけだ。
 震災から数カ月、忘れていたわけではなかった。しかし、その暗さで現実の重さを思い知らされた。
 「こんなときに応援に来てくれた母校の先生方、後輩の学生たちに申し訳ないような、でも感謝の気持ちがあふれました」


第5章 北茨城で検出された

 大震災が起きた2011年3月11日。
 いわき市を襲った津波は、海から十数メートルの高さにある福島県水産試験場の手前で、かろうじて止まった。


 だが停電、断水、電話の不通などで試験場の機能は停止した。試験場が落ち着きを取り戻したのは、3月も末になってからだった。
 早く調査を始めたいが、船がない。何より、放射能は試験場の専門外だった。
 場長の五十嵐敏は「何かしなければいけないのに、何もできない。いても立ってもいられなかった」。
 それ以上に不安といらだちを募らせていたのは、漁師たちだった。
 3月末、馬目祐市(まのめゆういち)(50)は避難先の千葉県柏市から戻った。いわき市にはまだ人影がまばらだった。
 「これから先どうするか考えないと」。いわき市漁業協同組合の幹部で集まって話し合うことにしたのだ。馬目はその監事を務めていた。
 「福島原発から汚染水がもれたって聞いたが、海は大丈夫か」
 イカナゴの稚魚コウナゴは3〜5月、北の仙台湾からいわき市の沿岸に南下して来る。船引き網で漁をするいわきの漁師たちが、1年の収益の7〜8割を稼ぐ大切な時期だ。
 「生活がかかっている。早く漁を再開したい」
 「海や魚の放射能はどうなっているんだ」
 「危ないのか危なくないのか、なんで国や県は調べないんだ」
 海の魚について、国や県が検査を始める動きはなかなか見えない。農産物については、国も県も事故直後から動いていた。しかし海の方は、港が壊れ、漁船も流され、漁協は操業を停止している。水産物はまだ市場に出回ることはない。それで後回しにされていた。
 福島の漁師たちがいらだちを募らせていた4月4日、衝撃のニュースが伝わった。
 「北茨城市の平潟漁協は、市の沖で取ったコウナゴから1キロあたり4080ベクレルの放射性ヨウ素が検出されたと発表した」――
 ヨウ素だけではない。放射性セシウムも447ベクレルが検出された。漁の再開を前に漁協が3月末、試験的に取って調べてもらったものだった。茨城県による海の魚の調査は4月に始まったばかりだった。
 県境をまたいで南隣の北茨城市の話だ。それより原発に近いいわき市で、放射能が出ないわけはない。だれもがそう考えた。


第6章 思っていたほどでは

 茨城県北茨城市のコウナゴが放射能で汚染されていた――。
 2011年4月4日のニュースを聞いて、いわき市の漁師たちはじっとしていられなくなった。コウナゴは、福島では今が旬だ。
 「隣の県で放射能の影響が出たのに、福島で出ないわけがない。なんとか調べてもらわなくては・・・

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