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朝日新聞社

スピードに魅せられて F1、ルマン制覇を支えた人たち

初出:2013年2月7日〜2月22日
WEB新書発売:2013年3月22日
朝日新聞

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 ヨーロッパで始まったモータースポーツに日本が本格的に加わってからおよそ半世紀。ゼロからのスタートの末、ホンダはF1の世界に君臨し、ルマンでもマツダのロータリーエンジン車が優勝するに至った。「バカヤロー、なんで勝てないんだ」と本田宗一郎に怒鳴られながらもエンジンの改良を続けたホンダ元社長の川本信彦さんらスピードに魅せられ、モータースポーツの最前線に立ち続けた人たちを追った。

◇第1章 世界制覇へ突っ走れ
◇第2章 我らが聖地ここにあり
◇第3章 ヒコーキの夢 地上へ
◇第4章 あの頂に いつか立つ
◇第5章 町工場の魂 見せてやる
◇第6章 限界やぶれ ブン回せ
◇第7章 君がここにいてほしい
◇第8章 あいつと走り続ける
◇第9章 栄光のルマン 我が手に
◇第10章 熱く楽しく、いつまでも


第1章 世界制覇へ突っ走れ

 1959年6月3日、ホンダエンジンの甲高い爆音がマン島に響き渡った。
 英国とアイルランドの間に浮かぶマン島は淡路島ほどの大きさだ。島の公道を使うオートバイレースのマン島ツーリストトロフィー(TT)は50年以上前に始まっていた。
 「絶対に完走する」。23歳の谷口尚己(たにぐちなおみ)(77)はレース用のオートバイ「RC142」のハンドルを握りながら気持ちを高ぶらせていた。


 「マン島レースはオートバイのオリンピック。『マン島を制する者は世界を制す』といわれていましたから」
 歴史と伝統の名物レースに、極東の小さな国のオートバイメーカーが初めて挑んだ瞬間だった。
    ◇
 マン島TTに出場しようと言い出したのはホンダの創業者、本田宗一郎(ほんだそういちろう)だ。初出場の5年前、社内に向けて高らかに出場宣言した。
 その宣言文が今に残っている。抜粋してみると――。
 「幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった。(中略)絶対の自信を持てる生産態勢も完備した今、まさに好機到(いた)る!」
 威勢のいい言葉が並ぶが、ホンダは48年に創業したばかりの若い会社だった。「スーパーカブ」というヒット商品を世に送り出してはいたが、まだ成長途上。そんな会社が広げた大風呂敷でもあった。
 オートバイを運転するライダーの谷口は52年、16歳でホンダに入社した。「初任給が3200円だったのを覚えている」。初めはエンジンの組み立て部門に配属されたが、運転がうまいことをかわれ、車両試験課に移されて新車の耐久テストを繰り返した。
 19歳で初めてレースに出場。3度転倒しながら、2位に食い込んだ。そんな頑張りが認められ、マン島遠征メンバーに選ばれた。
 チームのマネジャーだった飯田佳孝(いいだよしたか)(80)は遠征準備に忙殺された。「砂漠の冒険に出かけるようなものでした。海外でレースをするというのは、それまで誰もやったことがなかったですから」


 前例がない事業は手探りの連続だった。飯田はメンバーのパスポート申請や外貨入手などの手続きのため、役所を回って頭を下げ続けた。
 計画はくるくると変わった。エンジニアが「もっと馬力を上げたい」と粘ったため、オートバイの完成が出発に間に合わなかった。オートバイを運ぶために予約していた貨物船は、積み込みの前に横浜港を出てしまった。
 幸い船は神戸港を経由することになっていた。飯田は完成したオートバイなどの荷物一式をトラックに載せ、神戸港まで貨物船を追いかけた。神戸港に着くと、沖合に停泊していた貨物船まで艀(はしけ)を雇って積み荷を運んだ。
 マン島に到着してからも、問題は次々に起きた。日本から海路運ばれてきたオートバイは車体の一部がさびていた。コースで試運転すると、チェーンが切れ、点火プラグも焼き付いた。外国製の部品にとりかえ、どうにかレースに間に合わせた。
    ◇
 マン島TTの125ccクラスに出場した谷口は、コース10周、距離およそ170キロのレースを1時間34分あまりで走り切った。ホンダ勢で最高の6位に入賞した。同僚の鈴木義一(すずきぎいち)も7位、鈴木淳三(すずきじゅんぞう)も11位に入り、ホンダは団体優勝に相当するチーム・メーカー賞に輝いた。
 2年後、ホンダは頂点を極める。125、250ccの両クラスで1〜5位を独占する完全勝利だった。
 マン島での成功は、ホンダの名を世界に広げるとともに多くの人材を引き寄せた。後に社長になる川本信彦(かわもとのぶひこ)(76)、F1チームを率いる桜井淑敏(さくらいよしとし)(68)はレースに打ち込むホンダに憧れ、入社を決めた。
 ヨーロッパで始まったモータースポーツに日本が本格的に加わってから半世紀。スピードに魅せられ、最前線に立ち続けた人たちを追った。


第2章 我らが聖地ここにあり

 日本のモータースポーツを育んできたのが、三重県の鈴鹿サーキットだ。2012年、開場50周年を迎えた。9月に開かれた記念イベントには、2日間で計6万2千人のファンが集い、観客席を埋めた。
 塩崎定夫(しおざきさだお)(87)はその光景をまぶしそうに眺めていた。「こんなにたくさんの人に喜ばれるなんて。造った時には想像もつかなかった」


 1950年代後半、「サーキットを造る」と決断したのはホンダの創業者、本田宗一郎(ほんだそういちろう)だ。後に鈴鹿サーキット運営会社の取締役になる塩崎は、建設プロジェクトの担当を命じられ、準備にとりかかった。「すぐやれ、今日やれ、というのが本田さんの口癖でした」
 まずはサーキットを建設できる広大な土地探しから始めた。水戸市、静岡県浜松市、愛知県犬山市、滋賀県甲賀市……。候補地が見つかるたびに現地に足を運んだ。最終的に建設地は鈴鹿に決まった。
 「地元の方の説得が一番難しかった。モータースポーツはまだ世間で理解されていなかった。『なぜホンダがギャンブルをやるのか』と言われた」と塩崎は振り返る。戦後始まった公営競技のオートレースと間違われたのだ。
 土地が見つかっても、舗装などサーキット造りのノウハウはない。日本初の高速道路、名神が一部開通するのはまだ先、63年7月のことだ。前例のないスタートだった。
 60年12月、塩崎は先進国のサーキット事情を視察するため、同僚2人とオランダやイタリア、ベルギーなどを回った。持参した靴べらで現地の舗装を削り取り、持ち帰って参考資料にした。オランダ人のジョン・フーゲンホルツもアドバイザーに招いた。ヨーロッパへ出掛ける前に用意していたコース設計図は、帰国後、フーゲンホルツの助言などで4回書き換えた。
 翌61年8月、いよいよ工事が始まった。全長6キロの国内初のサーキットは、1年1カ月後に出来上がった。
    ◇
 鈴鹿サーキットの完成は、全国に少しずつ増えていたモータースポーツ愛好者を喜ばせた。自動車ジャーナリストの小林彰太郎(こばやししょうたろう)(83)もその一人。ペンを持つ傍ら、自らハンドルを握り、運転には自信があった。


 小林は鈴鹿サーキットが誕生したこの年、友人とともに雑誌「カーグラフィック」を創刊した。花森安治(はなもりやすじ)が作る雑誌「暮しの手帖(てちょう)」が目標だった。「暮しの手帖」は企業からの広告に頼らず、実際に商品を買ってテストし、消費者の立場から評価した。カーグラフィックを車の世界の「暮しの手帖」にしたいと思っていた小林は、海外から高額の計測機器を購入、実車テストをした。メーカーが発表するデータをうのみにせず、ずばずばとものを言った。
 そうした雑誌作りの一方で、鈴鹿通いも続けた。土曜日の仕事が午前中で終わると自宅に戻り、自家用車を駆って鈴鹿に向かった。現地に着くとサーキットを全速力で走り、終わると東京へ。月曜日の朝は何事もなかったような顔をして仕事をした。
    ◇
 「日本グランプリに出て勝つつもりだった」と小林は言う。だが当時はレースのことを知る人は少なく、ルールを説明できる小林に回ってきたのは先生役だった。鈴鹿サーキットのスタンドにある部屋で講義をしている最中、エンジン音が聞こえた。小林は思わずベランダに飛び出した。
 視線の先にあったのは金色に輝くフォーミュラカーだ。64年にデビューするホンダF1マシンの試作機である。
 サーキットはレースの場であると同時に、新車を「熟成」させる所でもあった。鈴鹿サーキットのおかげで、車メーカーはF1マシンの開発ができた。鈴鹿サーキットには発売前の市販車や試作車も集まった。「ホンダ以外のメーカーにもたくさん使ってもらった。とても誇らしいことでした」と塩崎は話す。
 小林は今、こう語る。
 「鈴鹿サーキットがなければ、日本の自動車産業は大きく遅れていた。本田さんに感謝です」


第3章 ヒコーキの夢 地上へ

 レース場に続く道は土けむりがたつ未舗装路だった。
 第1回日本グランプリは1963年5月3日と4日、三重県の鈴鹿サーキットで開催された。国内でも四輪レースの時代が始まった。・・・

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