教育・子育て
朝日新聞社

横浜翠嵐高校・青春スクロール 自由な校風が育んだ多彩な人材

初出:朝日新聞2012年12月19日〜2013年2月15日
WEB新書発売:2013年5月24日
朝日新聞

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 2014年に創立100周年を迎える横浜翠嵐高校からは多彩な人材が輩出している。コンビニ業界に新機軸を打ち出しているローソン社長・新浪剛史さんはバスケット部で活躍し、TBSアナウンサーの岡村仁美さんには今も体育祭の記憶が鮮やかに残る。政財界から芸術家まで翠嵐で育まれた多くの才能を紹介する。

◇第1章 熱い友情もった仲間/とにかく走らされた
◇第2章 受験参考書を編集/社会人野球に貢献
◇第3章 1年生男子にお化粧/蒸し風呂体育館
◇第4章 校訓「大平凡主義」/懐が深い教師・生徒
◇第5章 アーティスト多彩/北極凍土に作品
◇第6章 探求心旺盛な物書きたち/注目作多数
◇第7章 遊びも真剣/エンタメの才能存分に
◇第8章 JR4600駅乗降に挑戦/校歌祭 輝くOG


第1章 熱い友情もった仲間/とにかく走らされた

 1914(大正3)年の開校当時はさぞかし、ながめがよかったろう。多くの木々に覆われていたに違いない。校歌に歌われている「翠嵐」は、そんな緑豊かな環境を表し、校名はそれに由来したものだ。神奈川県立第二横浜中学校は、県立横浜第二高校を経て50(昭和25)年、県立横浜翠嵐高校(横浜市神奈川区)と改称した。3万人余の卒業生を送り出した名門校は2014年、創立100周年を迎える。それぞれが過ごした時代と母校への思いを紹介する。


 「文武両道」は伝統校共通のうたい文句だが、横浜翠嵐も例外ではない。まずは「運動漬け」だった先輩たちから。
 長身を生かしたシュート姿が決まっているのは、コンビニ業界に新機軸を打ち出しているローソン社長、新浪剛史(53、77年卒)。写真はバスケット部時代の一シーンだ。ポジションはセンター。3年生の時、関東高校県予選準決勝で強豪、相工大付(現・湘南工大付)に100対66で負け、決勝進出は逸したが、「熱い友情をもった仲間ができた」と振り返る忘れられない時代だ。市場を国外にも開く新浪は今、1年の半分は海外出張だという。培われた丈夫な体、タフな精神力が生きている。


 バスケット部の2年先輩に富士通副社長、藤田正美(56、75年卒)がいる。厳しい円高にさらされながらグローバルな事業拡大に取り組む。3人いる副社長の一人として総務・人事を担当。高校時代を「とにかく走らされた」と笑う。激務の傍ら、Wリーグ(女子バスケットボール日本リーグ機構)の富士通レッドウエーブ部長としても指揮をとる。チームはレギュラーシーズンを2位で通過、5季ぶりの優勝を狙う。「期待していてください」。卒業して35年。今もバスケットへの思いは変わらない。


 ローソン社長新浪の弟、新浪博(50、80年卒)は剣道部。「武」に明け暮れた3年だった。医学の道に進み、心臓外科医として知られる。埼玉医科大学国際医療センターで、成人心臓血管手術、特にオフポンプ冠動脈バイパス手術や心臓移植に携わり、医療の最前線を走り続けている。
 サッカー部でプレーしたのは元衆院議員、鈴木恒夫(71、59年卒)。7人兄弟のうち4人が翠嵐出身だ。高校2年生までサッカーを続けたが、実兄から「サッカーをとるか、大学(現役合格)をとるか決めろ」と言われてバドミントン部に移った。卒業後は毎日新聞政治記者を経て政治家に転身、09年に政界を引退した。当時の新自由クラブ代表だった河野洋平氏(元衆院議長)の秘書に転じて以来、河野氏と政界をともに歩いた。振り子のように揺れる政治状況を横目に、横浜商科大学の特任教授として、「現代政治論」などを教えている。

◎当時思い出し闘志/魂に力ある
 政界には野球部主将を務めた民主党参院議員、那谷屋(なたにや)正義(55、76年卒)もいる。投手で5番。受験、丸刈り頭……。いろんな理由で仲間がやめていく。同級生の中で3年間続けたのは那谷屋一人。「翠嵐野球部の炎を消してくれるなよ」。先輩の一言を胸に、歯をくいしばった。夏の神奈川大会は松田に4対0で1回戦敗退。「人生っておもしろいですよね。卒業してからもこういう苦しい場面が何度もやってくる。そのたびに『ここで踏ん張らにゃ』と、当時を思い出して闘志がわいてくるんです」。野田内閣で文科政務官を担当したが、いま一度、踏ん張る時を迎える。
 ソニーモバイルコミュニケーションズ代表取締役兼最高経営責任者の鈴木国正(52、79年卒)はバレーボール部主将だった。日本のモノ作りを支えてきたソニーのコア事業であるモバイル事業を統括。海外との競争は、勝ちばかりではない。「同期同士であれだけ怒鳴りあい、互いを鼓舞しながら練習を続けたことの背景は一体何だったのだろうかと今でも思う」と述懐する。2年生の新人戦でベスト4入り、3年の全国高校バレー選抜県予選では準決勝で法政二の壁に阻まれた。「魂に力のある人たちが育ったのは、きっと校風のおかげだったのだと今でも強く信じます」


第2章 受験参考書を編集/社会人野球に貢献

 横浜翠嵐の黎明(れいめい)期、旧制中ひとけたの期には、亡くなったOBも少なくない。
 中学1期生には、元日立製作所社長だった駒井健一郎(故人、1919年卒)がいる。東京の虎の門病院長を10年務めたのは沖中重雄(故人、21年卒)。その名は沖中記念成人病研究所に引き継がれている。
 戦前、戦後を通じてクラシックからポピュラーまで幅広く活躍した作曲家の高木東六(故人、24年卒)は母校の校歌の編曲も手がけている。写真家土門拳(故人、28年卒)は「古寺巡礼」「ヒロシマ」などの傑作を残し、「土門拳賞」が創設された。



 東京大学名誉教授の水野丈夫(85、45年卒)は高校時代、化学クラブに在籍。大学では動物の臓器がどう形成されるのかを研究する発生生物学が専門だった。受験生におなじみの「理解しやすい生物1」(文英堂)などを今も編集している・・・

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横浜翠嵐高校・青春スクロール 自由な校風が育んだ多彩な人材
216円(税込)

2014年に創立100周年を迎える横浜翠嵐高校からは多彩な人材が輩出している。コンビニ業界に新機軸を打ち出しているローソン社長・新浪剛史さんはバスケット部で活躍し、TBSアナウンサーの岡村仁美さんには今も体育祭の記憶が鮮やかに残る。政財界から芸術家まで翠嵐で育まれた多くの才能を紹介する。[掲載]朝日新聞(2012年12月19日〜2013年2月15日、8400字)

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