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朝日新聞社

刑事の結界 第2部〔2〕 陰惨な「首の皮一枚」、優男が守ったもの

初出:2013年4月18日〜5月9日
WEB新書発売:2013年6月28日
朝日新聞

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 いつもは被害者のために奔走する刑事も、時に加害者の心に寄り添うことがある。前科もない、弱々しくて頼りなさそうな優男が、悪質で無残な殺人事件を起こした本当の理由とは――。しゃがれ声で問いかける「武骨者」の刑事は、小さな声で話し出した男の言葉にじっくり耳を傾けた。迫真の事件現場や捜査の舞台裏を克明に描いた「刑事の結界」新シリーズ第2弾。

◇第1章 引き金
◇第2章 痕跡を捜せ
◇第3章 反対指紋


第1章 引き金

 2000年代半ばの11月下旬。ある警察署の取調室で、佐藤則政は優男(やさおとこ)と向かい合っていた。
 佐藤は県警捜査1課火災中隊の班長。またも殺人事件の幹部中隊として投入され、容疑者の取り調べをまかされた。
 「死体は山の中に捨てた。1カ月も前から殺そうと決めていた」
 佐藤は、この男の手書きの上申書に目を落とした。
 にわかには信じられなかった。
 弱々しく、頼りない。
 殺しなんて、できるのか――。
 胸裏にそう思った。
 報告された遺体の状況も引っ掛かった。首を刺され、さらに切り裂かれていた。文字どおり「首の皮一枚」だった。
 「あんな殺し方、できるのだろうか」
 事件が発覚したのは、3日前のことだ。
 昼過ぎ。山のふもとで、水くみに訪れた50代の男性が、血のついた雑巾を見つけた。付近にはポタポタと血痕が落ちていた。その先に目を移した。ジャンパーにジーパン姿の男性がうつぶせになって倒れていた。
 被害者は横浜市内の20代の男性だと判明した。アパートで一人暮らしをしていた。
 首のほか、左手には争った時についたと見られる防御しようとした切り傷があった。発見現場には、血痕はそう見つからなかった。別の場所で殺害され、運ばれたと推察された。
 佐藤らは翌日、被害者の面倒を見ていた祖母から聴取を始めた。仲良くしていたという1人の男が浮上した。その男は白の車を所有し、その車で墓参りに連れていってもらったこともある、と祖母は言った。
 男の家は被害者宅のそばだ。
 午後5時を過ぎていた。祖母との会話に出てきた車を、ほどなく見つけた。所有者は、被害者と中学時代の同級生の男だった。
 捜査員が窓から中をのぞきこむ。助手席には白い半透明のゴミ袋がかぶせられていた。うっすらと血痕のようなものが透けて見える。血のりがついた雑巾もあった。
    ◇
 「ホシに違いない」
 捜査員から車の中の様子を聞いた捜査1課の佐藤則政は、そう思った。
 ホシとは「犯人の目星」に由来する。
 だが、確信は持てない。
 「いったん戻れ」
 佐藤は、捜査本部が立ち上がった警察署の帳場から、捜査員に指示を出した。
 11月も下旬だ。夕方となれば、薄暮から一気に闇に包まれていく。そんな時間帯だった。
 窓越しに車の中をくまなく確認するには、懐中電灯の光にでも頼らなければならない。
 車が止まっているのは、男の自宅からわずかな距離だ。ライトを当てていたら、ばれてしまう。翌朝、仕切り直しすることにした。
 日が変わり、午前5時をまわった。まだ夜は明け切っていない。警察署に泊まり込んだ佐藤は、静けさに包まれた署から、捜査員を出発させた。
 午前6時半が過ぎた。現場に着いた捜査員から電話が入った。
 「昨日のゴミ袋がなくなっています」
 こうも続けた。
 「新しいシートカバーがつけられています」
 運転席と助手席の間にある物入れに使うコンソールボックスには、血を拭いたような形跡もあった。そんな報告だった。
 「間違いないな」
 佐藤はようやく確固たる自信を得る。
 逮捕状を取りたい。
 だが、何か物証が必要だ。
 遺体が発見された山中には、血のついたポリ袋が落ちていた。そこから指紋が三つ検出されていた。
 「この男の前歴はないのか」
 前歴があれば、指紋データがある。それが、現場に残った指紋と一致すれば、逮捕状をとれるはずだ。
 だが、佐藤のもくろみは外れた。男には前歴がなかった。
 打開策はないのか。
 午後8時過ぎのことだった。県警本部に110番通報が入った。
    ◇
 「死体を捨てたのは自分です。自首したい」
 捜査1課の佐藤則政らが追い詰めようとした、車の持ち主の男(20)だった。
 自殺でもされたら困る。その前に身柄を確保しなければ――。
 連絡を受けた佐藤は、捜査員を男の自宅に差し向けた。
 午後9時。すでに事件をかぎつけた報道陣が押しかけ、男の自宅周辺には、黄色い規制線が張られていた。
 裏口から3人の捜査員に抱えられた男が出てきた。ジャンパーで顔を隠していた。最寄りの警察署に向かった。上申書を書き始めた。
 日付が変わった。男が捜査本部のある警察署に着いた。佐藤は取調室で待っていた。
 目の前に座った男は、優男の風貌(ふうぼう)がにじむ。
 無残に人を殺した理由は何か。
 佐藤は再び上申書に目を通した。
 「2年ほど前から恐喝を受けていた」
 弱々しい筆致だった。だが、「恐喝」の二文字がやけに気になる。
 午前4時10分。夜明け前に死体遺棄容疑の逮捕状を執行。男を逮捕した。
 容疑者の言い分を聞く「弁解録取書」も、とらねばならない。
 「逮捕状に書かれたことに間違いないか」
 佐藤がしゃがれた声で尋ねた。
 「間違いない」
 男はぶっきらぼうに答えた。興奮している様子はない。だが、どこか投げやりだ。
 夜が明けた。その日は、翌日に迫った横浜地検への送検の準備で慌ただしく過ぎた。
 刑事訴訟法203条1項。警察官は逮捕後、原則として48時間以内に容疑者を検察庁に送検しなければならない。
 佐藤が男とじっくり向き合ったのは、その後のことだった。優男の風情から、凶行のニオイは漂ってこない。だが、犯行の引き金となった動機を、聞き出さなければならない。佐藤の取り調べの手腕にかかっていた。
    ◇
 「何でやったんだ」
 捜査1課の佐藤則政は、取調室で、まず尋ねた。
 「もういいんです。どうなってもいいんです」
 男はそう言った。佐藤は右耳を男に見せるように話を聞いた。佐藤は幼いころから左耳が難聴だ。話を聞くときには右耳が頼りだ。
 「真実をきちんと話すことだ。それが謝罪になるんだ」
 佐藤は諭すように、ゆっくりと話した。
 それでも男は変わらない。
 「あいつを殺したから、もう自分はどうなってもいいんです」
 「そういうことを聴いているんじゃないんだ」
 佐藤は男に強い口調で向けた。
 「事実を話して、裁判を受けて刑期を全うすれば、罪は消える」
 一呼吸おいた。
 「また真っ白な人間に戻れる。また一からやり直せるんだ」
 うつむき加減だった男が、ぼそっと口にした。
 「これで両親に危害が加わらないから、自分はもう死んでもいいんです」
 なぜ両親が危険な目に遭うのだ。両親を気にするのはなぜだ。佐藤が右耳を傾け、反応した。
 「今は、両親やきょうだい、親戚に迷惑をかけていることになるのだろう。裁判を受け、早く刑務所から出ることを考えるんだ」
 佐藤は続ける。
 「それで両親に恩返しをしてやるべきだ。出てくるときには、親もそれなりの年になっている。面倒を見てやれ。それがお前がやるべきことだ」
 しゃがれ声の佐藤が、また問うた。
 「なんでやったんだ」
 うつむく男の口が開いた・・・

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