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朝日新聞社

原子のムラ 第3部 国策と原子力マネーが育てた異界

初出:2013年6月4日〜6月11日
WEB新書発売:2013年6月28日
朝日新聞

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 茨城県・東海村周辺には多くの原子力施設が集まっている。国内初の原子の火が灯った村は、どのように「日本の原子力センター」になっていったのか。反対闘争の実態や誘致活動の背景をさぐりつつ、国策と巨額の原子力マネーによって特殊な進化をとげてきた地域の姿を描き出す。

◇第1章 国の原子力委「地帯整備」答申 「低人口」思想どこへ
◇第2章 再処理工場と射爆場返還運動 「反対」条件闘争の具に
◇第3章 村長からカーター大統領への親書 米の「待った」はねのけ
◇第4章 高速増殖実験炉「常陽」誘致とその後 いまも町の頼みの綱
◇第5章 核融合 那珂と岐阜・土岐 「夢の研究」反応両極
◇第6章 くすぶる「3号炉」計画 断てるか禁断の果実


第1章 国の原子力委「地帯整備」答申 「低人口」思想どこへ

 東海村役場の庁舎東端にあるエレベーターは、最上階の5階までゆっくり15秒かけて昇る。全面ガラス張りで、外の景色がよく見える。
 3キロ先の海岸沿いには原発の煙突や研究施設が見え、間には住宅がひしめきあう。庁舎は1997年に建った。ガラス張りの設計は、原子力施設と安全に共存する村の様を来庁者に見せるためだった。
 2013年5月30日、このエレベーターで5階に上がった日本原子力研究開発機構の幹部は、加速器実験施設「J―PARC」の放射能漏れ事故を陳謝した。「村民保護の観点から厳重に注意する」。厳しい言葉で機構を批判した村長村上達也(70)は、村が抱える問題を改めて胸に刻んだ。
 他の原発立地地域とは異なるこうした景色が生まれた背景を知るには、56年の日本原子力研究所(原研)立地までさかのぼらねばならない。
 原研設置が決まった後、村には核燃料を製造する原子燃料公社や国内初の商用原発の建設が相次いで決まり、企業誘致の話も進んだ。初の原子力施設集積地の都市計画は一地域だけの問題ではなくなり、国の原子力委員会は62年、専門部会を設置。原子力施設周辺のまちづくり、「地帯整備」の研究に乗り出す。
 専門部会は小委員会で問題点を洗い出し、64年12月、踏み込んだ答申を出す。
 「原子力施設から2キロ未満区域は人口が増加しないようにする」「2〜6キロ区域には人口集中地区がないようにする」。特に2キロ未満は「住居のほか乳幼児や児童の多く集まる施設の新設は望ましくない」とした。事実上、原子力施設周囲は居住にふさわしくないと結論づける内容だった。
 当時、東海原発の半径2キロ圏には3088人の住民が住んでいた。6キロ圏となると、村のほぼ全域だった。
    ◇
 答申は村内に波紋を広げた。立ち退きへの不安を訴える村民も少なからずいたことが、当時の記録から分かる。
 その一因は、国の方でも見解が乱れていた点にあった。
 65年2月1日発行の「広報東海」には、村議会特別委の問いに科学技術庁が「原子力施設の事故対策として地帯整備をやるのではない」と答えたことが記されている。しかし同じ号で専門部会小委員会の松井達夫委員長は「万々が一の原子炉の事故を考えれば、ある程度、将来の人口を抑制したほうがよい」と発言していた。
 村としての理解は結局、安全を前提にしたものに落ち着いていく。
 同じ年の9月1日号の広報は、部会の人口抑制答申を「民主主義の世の中に、このようなことができようはずもない」と切り捨て、こう記した。「地帯整備とは、村の特殊性を十分いかした、よりよい都市づくりのことである」
 万が一の事故を想定した地帯整備は、輝かしい「原子力都市計画」へと変質していった。


 茨城大地域総合研究所の元客員研究員、斉藤充弘(41)は、約10年前に地帯整備の経緯を研究した。村を訪れ、住宅の近くまで原子力施設が建つ状況に驚いたのがきっかけだ。「村民には、安全確保よりも身近な生活環境を良くすることに関心が高かった」と分析する。
 原子力委員会は65年8月、道路整備や緑地確保などにとどまる計画を決定。急ピッチで整備された幹線道は村を東西に貫き、常磐線を立体交差でまたいだ。本来は原子力災害時の避難道路として計画されたものだが、いつしか、立ち並ぶ原子力施設への導入路と認識され「原研通り」「原電通り」「動燃通り」と呼ばれるようになった。原研通りは当初、幅30メートルが検討されたが、その後18メートル、11メートルと縮小していき、実質的にも避難道路の意味合いは薄れた。


 村の人口はその後、3倍以上に膨れあがった。
 これらの道路の本来の役割を村民が思い出したのは99年9月30日、JCO臨界事故の際だ。この日、近隣住民を乗せたバスは動燃通りを西から東へ進み、村施設へ滑り込んだ。国内初の原子力災害避難者だった。
    ◇
 「万が一の原子力災害」を想定した人口抑制という考えは、踏み込まれぬまま、原発の設置基準に反映されることになる。
 第一号原発の東海発電所試運転を控えた64年5月、「原子炉立地審査指針」が原子力委員会で決定された。
 指針は「原子炉からある距離の範囲内は非居住区域であること」「非居住区域の外側は低人口地帯であること」「敷地は人口密集地帯からある距離だけ離れていること」の3条件を定めた。被曝(ひばく)線量の目安は示されたが、具体的距離の記述はなかった。
 関西電力から発足当初の日本原電に出向していた板倉哲郎(86)は、この指針づくりに携わった。「低人口という思想は生きていたが、周囲の人口をその後増やさないための具体的な歯止めはなかった」と語る。
 3条件はそのまま49年間、改定されなかった。
 東京電力福島第一原発事故を受けて、原子力規制委員長の田中俊一(68)は指針を全面的に見直す意向を示した。
 福島の事故では、防災対策を講じるべき範囲と定められた半径8〜10キロを大幅に超える地域が高濃度の放射性物質で汚染された。
 国は12年、防災対策地域を半径30キロ圏に拡大し、域内の市町村に詳細な避難計画作りを求めた。
 09年12月、東海村内で初めて、事業所も参加した原子力総合防災訓練があった。周辺の道路は、大渋滞した。
 村は13年3月に避難計画の概要をまとめたが、3万8千人の村民の避難路や避難先、誘導の方法などの詳細は、固まっていない。


第2章 再処理工場と射爆場返還運動 「反対」条件闘争の具に

 「放射能放出の過酷事故が起きれば、首都圏壊滅の事態が想定される」
 東日本大震災から8カ月後の2011年11月。東海村の日本原子力研究開発機構に、地元茨城や岩手の住民14人が詰めかけた。持参した質問状は、1997年に爆発事故を起こした「再処理工場」の現状を問いただす内容だった。
 81年に本格稼働した工場は、「原発1年分の放射能を1日で出す」と評された。原発が生み出す使用済み核燃料からプルトニウムやウランを取り出す「再処理」の施設。内部にはいまも、再処理後に残る「高レベル放射性廃棄物」が不安定な液状のまま保管されている。その量、392立方メートル。福島第一原発から放出された放射性物質の80倍にあたる(セシウム換算)。
 国策の「核燃料サイクル」の要とされた再処理工場の建設地は半世紀前、やはり原子力発祥の地が選ばれた。だが、それまで原子力施設を積極誘致してきた茨城は、初めて「反対」を突き付けた。
    ◇
 「東海村に、地球上でこれ以上恐ろしいものはないという施設ができるのです・・・

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