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朝日新聞社

2000万の瞳 世紀の大事業・黒部ダム完成50周年

初出:2013年6月6日〜6月18日
WEB新書発売:2013年7月5日
朝日新聞

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 2013年6月5日、黒部ダムは完成50周年を迎えた。1956年に着工し、63年に完成した同ダムは、総工費513億円、延べ1000万人を動員。難工事の連続により、出した死者171人。高さ186メートルは、今でも国内1位と、「世紀の大事業」という当時の呼称に、まさにふさわしい、一大プロジェクトだった。困難に打ち勝った当時の関係者は、いま何を思うのか。名作映画「黒部の太陽」のスタッフや、現在の観光事業を支える社員・職員にとって「黒部ダム」とは何なのか。多面的に浮かび上がらせる、昭和の大モニュメントの輝き。

◇第1章 世紀の大事業 未来へ
◇第2章 本物さながら「黒部の太陽」
◇第3章 難工事支えた誇り今でも
◇第4章 発着点の名物笑顔誘う
◇第5章 湖の表情読み取り船出
◇第6章 布と糸で描く先人の魂
◇第7章 建設がむしゃらだった


第1章 世紀の大事業 未来へ

◎記者、ダム内部へ/ドーム型「自然とマッチ」 
 2013年5月末、黒部ダム勤務員の丸山功輝さん(49)とダム内部を歩いた。
 内部には、点検用通路「監査廊」が約10キロあり、迷路のように延びている。堤頂部からエレベーターで下がり、本体に沿ってカーブする通路を歩く。ひんやりして薄暗く、カビも生えていて50年の経過を感じさせる。
 「ここが真ん中です」。丸山さんが下流側のドアを開けると、バッとまぶしい外光が飛び込んできた。ダム壁面に付いた屋外通路「キャットウオーク」に出る。高さ約120メートル。手すり越しに黒部川が見える。


 ダム勤務員は、ここでコンクリートの状態や放水バルブ、山の斜面などを確認する。見回すと、ダムがドーム型になっていることがよく分かる。
 丸山さんは「丸みを帯びて優しく、異物の感じが少ない。50年前から自然とマッチする設計が考えられていたと思う」。
 コンクリートを固めた黒部ダムは容積約158万立方メートル。関西電力は、完成時からダム内にワイヤを通して計測を続けており、この巨大な構造物は水や山に押されて伸びたりたわんだりを繰り返し、中央部は毎年、前後に約4・5センチ動いているという。関電北陸支社の加藤雅広さんは「下流に大きく倒れることがないか調べているが、ゴムのような弾性的な動きを繰り返している」と説明する。
 ダムでは、丸山さんら5人が24時間態勢で交代勤務。ダム内に加え、上流域、下流域、発電所への水路なども点検を続ける。丸山さんは「電力供給が使命。トラブルで発電できないことのないようにしたい」と話した。
     ◇
 「世紀の大事業」とうたわれたダムは今も近畿に電力を送り続ける。関係者は犠牲者を悼み、難工事に思いをはせた。

◎やっと貫通 闘志わいた

関電OB・奥野義雄さん(89)

 半世紀が経過し、関係者は改めて感慨を深めている。
 関西電力OBの奥野義雄さん(89)=富山市=は、黒部ダムの着工から完成まで7年間、長野県大町市の建設事務所で働いた。通産省、建設省など監督官庁と設計変更や許認可の折衝にあたった。延べ1千万人による大工事。「携わった皆が『俺がやった』と言います。その通りだと思います。『ワン・オブ・ゼム』(大勢の中の一人)でしたが、その一人がいたから完成した。みんなでやったんです」と振り返る。


 奥野さんは、国家統制下の日本発送電に入り、1951年の電力会社再編を経て関電に移った。
 戦後、近畿は電力事情が悪く、週に数日停電するような状況。黒部ダムと黒部川第四発電所の建設は急務だった。
 黒部ダムには、三角形に築く当時主流の重力式ではなく、伏せたおわんを切ったようなアーチ式ドーム型が採用された。「なにしろ工期が短かった。コンクリートが4割少なくて済むように設計した」と話す。
 長野側からの関電トンネル(5・4キロ)が貫通した58年2月25日をよく覚えている。映画「黒部の太陽」にも描かれた破砕帯80メートルの突破に7カ月を要し、工期は遅れていた。
 富山側からの迎え掘りを踏まえ、2日前には計算上の貫通点に達していた。しかし、報道陣も来ているのに貫通しない。奥野さんは2晩、「測量の間違いか」と一睡もできなかった。
 午後7時すぎ、現場の担当者で、「黒部の太陽」の主人公のモデルになった笹島信義さん(現笹島建設会長)があちこちを探りノミでつついていると、小さな穴が開いて冬の黒部からの風がひゅーっと吹き込んできた。「冷たい風を全身に浴びて、武者震いがした。トンネルが抜けて、やっと本体工事ができると思うと闘志がわいてきた」。仲間と喜び合い、万歳を繰り返したという。
 黒部ダムには2012年夏も訪れ、小学生のひ孫2人が「すごいなぁ」と目を輝かせてくれた。奥野さんは「日本一のダムを造った誇りは揺るがない」と語る。

◎強固なままで役立って

元組合員・佐伯伊久光さん(75)

 佐伯伊久光(いくみつ)さん(75)=立山町=は、黒部ダム建設が始まった56年から、間(はざま)組(当時)の一員として工事に携わった。60年までの3〜10月、山深いダム建設地付近で寝泊まりし、関電トンネルの富山側からの掘削、ダムの岩盤工事などで火薬の管理を担当した。
 56年は関西電力と間組の大きなテントが二つあるだけだった現場に、翌57年からは2階建ての立派な宿舎が次々建った。「10棟ほどあり、村ができたようだった」という。
 58年の関電トンネル開通で物資が届くようになると、「村」には豆腐店や理髪店、診療所や駐在所までできた。「人口」は数百人にのぼり、ほとんど男性だった。近くからひいた温泉で露天風呂も作られ、疲れた体を休ませた。
 佐伯さんは「同じ構造のダムが海外で決壊事故を起こしたと聞き、『黒部は大丈夫か』と工事中に不安も感じた。黒部ダムは50年たってもびくともしていない。あと何百年も強固なままで、役立って欲しい」と話した。


第2章 本物さながら「黒部の太陽」

◎濁流に流され全身にあざ

カメラマン・金宇満司さん(80歳)

 関電トンネル掘削の苦闘を描いた故・石原裕次郎さん主演の映画「黒部の太陽」(1968年公開)は、67年7月に撮影が始まった。フリーから抜擢(ばってき)されたカメラマン金宇満司(かなうみつじ)さん(80)=東京都調布市=は「実物に負けない映画を作る。その気概だった」と語る。


 7年間の工事で171人が亡くなっていた。その重みに「合成は一切よそう。映画が楽をしちゃダメだ」と望遠レンズの撮影でも、代役の役者は使わなかった。資材の歩荷のシーンは、黒部の山で幅60センチほどの崖っぷちに立ち、自らカメラを回した。発破の場面は、三脚を使わずに手でカメラを持って現場が揺れる衝撃を収めた。
 岩盤が崩れ、濁流が噴き出す破砕帯遭遇のシーンは、愛知県内に長さ240メートルのトンネルのセットを作り、水450トンと砂利100トンを用意して撮った。
 映画では、故・三船敏郎さん演じる工事責任者が「退避」「急げ」と叫ぶ中、猛烈な濁流が丸太を押し流し、必死に逃げる裕次郎さんらをのみ込んでいく――。一番の見せ場になった。
 撮影前には、トンネルの両側に固定した40本以上の丸太が水の勢いを和らげるはずだった。しかし、想定外に流れ出す丸太を目の前にして、カメラマンが逃げるわけにいかない。金宇さんはその場で耐えようとしたが、濁流に流された。裕次郎さんは右手の親指を骨折、金宇さんも全身あざだらけになった。
 カメラは11台のうち2台が水没。フィルムを急いで東京へ運び、現像させた。その日は一睡もできなかったが、翌朝、「少しムラがあるが映像は使える」と電話があり、迫力あるシーンが残った。映画は公開されると、観客700万人を超える大ヒットになった。金宇さんは「これほどしんどい映画はなかった」と語る。
 映画の撮影以降、金宇さんは裕次郎さんと酒を酌み交わすことが多くなった。映画の仕上げ作業をしていた時「一杯飲みにきてよ。次の話があるから」と言われた。自宅へ行くと「俺としばらく付き合ってくれ」と仕事の誘いを受けた。
 金宇さんは石原プロに入り、映画「栄光への5000キロ」、テレビドラマ「西部警察」など数多くの裕次郎作品を撮った。「裕さん」「満(まん)ちゃん」と呼び合い、裕次郎さんが87年に亡くなるまで6年間、看病した。
 金宇さんの自宅には、裕次郎さんのポスターや出演作のDVDがずらりと並ぶ。遺影の前には毎朝水をお供えする。「家族みてぇなもんなんだ」と金宇さんは言う。
 黒部ダムには、裕次郎さんの命日などに訪れ、慰霊碑に花束を捧げてきた。「裕さんを思い出す特別な地だから。また一緒に撮りたいね」



◎注射を打って暑さ乗り越えた 金字さんインタビュー
 大ヒットした映画「黒部の太陽」。金宇満司さんに当時の感想を聞いた。

 ――石原裕次郎さんはどんな方でしたか・・・

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