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朝日新聞社

刑事の結界 第2部〔3〕 落ちる花のように…19歳の次男は逝った

初出:2013年5月11日〜6月21日
WEB新書発売:2013年8月2日
朝日新聞

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 帰省した子どもたちと囲む鍋。何げない一家だんらんは、あの日を最後に全員がそろうことがなくなった。何の科もない息子は、なぜ命を奪われなければならなかったのか。父、母、祖母、兄弟たちの胸に渦巻く無念の思い。「武骨者」の刑事は、この理不尽の真相を明らかにするため、少年が待つ取調室へ向かった。迫真の事件現場や捜査の舞台裏を克明に描いた「刑事の結界」新シリーズ完結編。

◇第1章 落ちる花のように
◇第2章 ふたり
◇第3章 邂逅


第1章 落ちる花のように

 秦野市を流れる金目川沿いの道。桜の木のわきに、50センチほどの地蔵がちょこんと鎮座している。
 パンジーに囲まれた地蔵の前では、線香の淡い白煙がゆらゆらと揺れている。
 なごむような川のせせらぎ、それに、近くの小学校から聞こえる子どもたちの声――。
 「ただいま」
 そんな柔らかい声までもが、耳に届いてきそうだ。
 そう。10年も前はあたりまえのように聞いていた、あの声が。
 2002年10月31日午前5時。千葉県市原市の自宅の2階で、村本久子(47)は目を覚ました。
 「帰ってきたよ」
 1階に下りると次男の保裕(19)の声が聞こえてきた。
 前日のことだ。「学祭で1週間大学が休みだから帰る」とメールで連絡が入っていた。夜になっても帰ってこない。1日遅らせるのだろう。そう思っていた。
 保裕は未明に帰宅していた。ともに東海大学に通う二つ上の長男と、軽乗用車に乗って。帰省は夏以来だった。
 その日の夜。帰省した2人、それに四つ下の高校生の弟、久子と父忠義(47)、祖母(76)の6人がそろった。
 「肉が食べたかったなぁ」
 保裕が台所をのぞき込んだ。保裕の好物は分厚いステーキだ。久子は振り返った。「昨日、肉にしたんだよ。今日はカニ鍋。今度帰ってきたら肉にしよう」
 食卓の中心には、湯気をほんわりと上げた土鍋。鮮やかな紅色になった主役のカニ、それにカキとタラを添える。そのまわりに豆腐、白菜、ネギ、シイタケ、それに白滝。ぐつぐつと音を立てる。
 カニやカキから出たダシに、薄口しょうゆで調える。村本家定番の味だ。
 「お兄ちゃんが、あんまり車を貸してくれないんだよ」。大学近くのアパートで兄と同居する保裕。2人の足は軽乗用車だ。父が買ったばかりの車を貸してほしいと、保裕が忠義にねだる。「初心者があんな大きな車は運転できないだろう」。忠義が、おどけて返した。
    ◇
 2002年10月末。村本家6人で囲んだカニ鍋は、すっかりなくなった。長男は恋人が待つ新潟に出かけていった。コーヒーの製造工場でアルバイトをしていた保裕も、帰り支度を始めた。
 午後10時半をまわった。赤いジャケットをまとった保裕は、居間にいた母久子に言った。
 「ジャケットの金ボタン、なくなっちゃったんだよね。探しておいてよ」
 ボタンがとれるなんて縁起でもない。久子は不安げな表情を浮かべた。
 「じゃ、行くね」
 保裕の声は、それをかき消すかのようだった。
 「気をつけてね」
 気遣う久子に、「うん、わかった」と、保裕は玄関を出た。
 翌日も、久子はいつものように午前5時に起きた。朝ごはんの白米とみそ汁に、高校に通う三男の弁当をこしらえる。
 午前6時。2階の寝室に上がった。テーブルに置いてあった携帯電話の着信音が聞こえてきた。
 「誰だろう、こんな朝早くに」
 久子は画面をのぞいた。0463…。見慣れない市外局番が表示されている。
 「え、この電話、誰?」
 戸惑った。通話ボタンを押してみた。
 「東海大病院の救命救急センターです」
 切迫した女性の声。「携帯電話に登録されていた『お母さん』に電話しています。持ち主の名前を教えてください」
 わけがわからない。
 「村本保裕(やすひろ)ですけど……」
 「生年月日はいつですか」
 頭を巡らす間が、ない。
 「昭和58年3月23日です」
 せきたてる声が耳元に届く。
 「本人かどうかを確認していただきたいんです」
 久子は、保裕の身に何かあった、と悟った。
 「どんな状況なんですか」
 不安に駆られ、尻込みしそうになった。
 「大変危険な状況です」
 電話口の声が、どこか遠くで聞こえた。
    ◇
 村本久子はザッとふすまを開け、まだ寝ていた夫の忠義を起こした。
 「ねぇっ。やっちゃんが危険な状態なんだって。ねぇ。行かなきゃ」
 新潟の恋人の元にいる長男にも、電話を入れた。
 「やっちゃんが交通事故にあったみたいで、病院で本人かどうか確認してほしいって言われたの。誰かいないかな」
 長男は、次男の保裕と同じ大学に通う。弟の友人を知っている。長男は、病院に向かってほしいと、その友人に電話口で頼んだ。
 交通事故にあったのかもしれない――。
 久子と忠義は、食卓に用意した朝ご飯には手もつけず、車に飛び乗った。
 向かう先は神奈川の東海大病院。助手席の久子は気をもんでいる。アクアラインにさしかかろうとした。久子が握りしめていた携帯電話が鳴った。長男だ。
 「ヤスが亡くなったみたいだ」。保裕の友人から、死んだと連絡が入った。長男の声は震えていた。泣いていた。
 久子は嗚咽(おえつ)を漏らし、崩れ落ちそうになった。忠義はほおをぬらし、ハンドルを握り続けたまま、叫んだ。
 2時間が過ぎた。病院では警察と刺繍(ししゅう)が入った作業着を身にまとった人たちとすれ違った。
 「この人たち、何なんだろう」
 病院には不似合いな人たちが歩いている。久子はそう思った。
 忠義と久子が、病院の一室に通された。変わり果てた姿でベッドの上に横たわっているのは、前日の夜に自宅を出た息子だという。
 顔が大きく腫れ上がり、左ほおにはスニーカーで踏みつけられた痕が、くっきりとついていた。顔を見ても、すぐには保裕だとわからなかった。いや、もう直視すらできない。
 ベッドのわきに置いてあった服を見て、あぁ保裕なんだ、と落胆した。金色のボタンが外れていた、あの赤いジャケットだった。
 「やっちゃん、やっちゃんっ」。2人は反応のない息子に、声をかけ続けた・・・

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