【お知らせ】WEB新書は閉店しました。

社会・メディア
朝日新聞社

プロメテウスの罠〔32〕 踊り残そう「子どもらに笑顔が戻った」

初出:2013年7月4日〜7月18日
WEB新書発売:2013年8月23日
朝日新聞

このエントリーをはてなブックマークに追加

 福島原発事故と大津波は、被災地の日常だけでなく、神社の祭りなど伝統行事も奪った。古里を追われ、たどり着いた避難先で必要なのは土地の記憶だった。豊漁と海上安全と豊作を願う浪江町「安波(あんば)祭」の、女子だけで踊る伝統芸能「請戸(うけど)の田植踊」がいち早く復活した。南相馬・村上の「道化の馬」は会場を笑わせた。衣装と道具を整え、戸外の放射線に神経をとがらせながら、多くの避難者を元気づける「田植踊」の復活・保存に尽力する女性らの熱い思いと取り組みを丁寧に追う。

◇第1章 あの時と同じように
◇第2章 宮司になってほしい
◇第3章 私は足かせですか?
◇第4章 あの子たちはどこに
◇第5章 供養と復興のために
◇第6章 意を決して、歌った
◇第7章 放射能にピリピリ
◇第8章 「帰りたい」と祈願
◇第9章 こんなにできるんだ
◇第10章 「馬の頭」見つけた
◇第11章 原発作業員、45年
◇第12章 客を笑わせた道化
◇第13章 200の芸能の危機
◇第14章 原発に追われたのに
◇第15章 やれることをやろう


第1章 あの時と同じように

 2013年2月17日午後、福島県浪江町請戸(うけど)。津波で流されたくさ野(くさの)神社の社殿跡に、白い防護服の女性が向き合った。
 横浜市の倉坪郁美(くらつぼいくみ)(41)。いま、くさ野神社の宮司を務めている。
 社殿跡には小さな社(やしろ)が建てられ、おさい銭が積まれていた。傍らに玉串やお神酒を置く。祝詞(のりと)を書いた紙を取り出し、読み始めた。
 「死者、行方不明者の御霊(みたま)を鎮め」
 「放射性物質を取り除かしめたまえ」
 「清き麗しき、もとの古里に立ち返らしめたまえ」
 「かしこみかしこみ申す」
 郁美は境内の裏手に接する実家で生まれ育った。
 父の鈴木澄夫が宮司だった。11年3月11日の大津波で澄夫と母の照美、長姉弥生が亡くなった。禰宜(ねぎ)だった弥生の夫は行方不明のままだ。福島第一原発から6キロしか離れていないため、直後の原発事故で地区ぐるみ避難させられた。津波後の捜索も十分にはできなかった。
 毎年2月の第3日曜日が神社の例大祭「安波祭(あんばさい)」で、2月17日のこの日もそのはずだった。
 安波祭は豊漁と海上安全、豊作を願って行う。彩りを添えたのが「請戸の田植踊(たうえおどり)」だ。請戸小学校の4〜6年生が社殿前で踊った。


 神社で踊ったあと、子どもたちは住宅や商店が並ぶ請戸の通りを練り歩いた。家を回り、田園を抜け、海に進む。海辺には神社の「御仮屋(おこや)」が設けられ、そこでも踊った。
 毎年毎年、その日の請戸は終日にぎわった。
 郁美は周りを見た。一面、自分の背の高さほどもある枯れ草に覆われている。壊れた家や津波で打ち上げられた船がぽつぽつと残っているほかは、周囲に何もない。人の姿は同行の次姉夫婦だけだ。
 ほぼ同時刻、佐々木繁子(ささきしげこ)(63)は請戸の子どもたちと二本松市の仮設住宅で田植踊を披露していた。二本松には請戸の避難民が多い。
 田植踊は震災5カ月後に復活していた。ほかのどの地域よりも動きは早かった。郁美と佐々木は数日前、電話で連絡を取り合った。合言葉は「安波祭のときと同じようにやろうね」だった。


第2章 宮司になってほしい

 倉坪郁美は震災翌年、2012年の2月19日にも祝詞(のりと)をあげた。
 浪江町請戸のくさ野(くさの)神社社殿跡、小さな社。慰霊祭の位置づけで、町や神社本庁、県神社庁からも関係者が出席した。郁美が父の鈴木澄夫の後任宮司に就任した報告も兼ねた。


 津波にさらわれた長姉と母は11年4月下旬、澄夫は7月に遺体が見つかった。原発事故のため、捜索は4月中旬に入ってからだった。
 9月、次姉の住む仙台市で両親の葬儀を営んだ。葬儀後のなおらいの場で、郁美は数人の氏子から「宮司になってほしい」と頼まれた・・・

このページのトップに戻る