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朝日新聞社

オキナワは「怪物」と同居した のたうち回るこの島の宿命

初出:2013年7月30日〜8月14日
WEB新書発売:2013年8月30日
朝日新聞

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 68年間、オキナワは異国との同居を強いられてきた。沖縄戦で戦死して後に米軍基地の名のもととなった若き米兵、日本軍と米軍の兵士として戦場で向かい合った実の兄弟、米軍兵士と結婚してカクゴを決めた女性……。解放者であり、支配者でもあるアメリカと、オキナワをたどって見えてきたものがある。数奇な歴史を重ねてこざるを得なかったこの島を、ウチナーンチュたちを、苦しめ追い詰めてきたものとはいったい何なのか。

◇第1章 基地に名を刻まれた22歳
◇第2章 敵と味方に分かれた兄弟
◇第3章 激戦を生き延び対面
◇第4章 米国が見せた二つの顔
◇第5章 同居する「怪物」との記憶
◇第6章 米兵を夫にしたカクゴ
◇第7章 全身で米兵にぶつかった
◇第8章 米国が教えてくれた勇気
◇第9章 フェンスよりも高い壁


第1章 基地に名を刻まれた22歳

 ハンセンって、どんな人だったのだろう。
 ずっと気になっていた。沖縄県金武町、名護市など4市町村にまたがる県内最大規模の米軍基地、キャンプ・ハンセンの名前のもとになった人のことだ。
 それを確かめるため、北米のほぼ中央に位置するネブラスカ州を訪ねた。空港からハンドルを握り3時間、常に目の前にトウモロコシ畑と地平線がある。
 沖縄へ行ったことはありますか? 目指す家にたどり着き、最初にそう聞いた。
 「沖縄どころか、私たち家族は米国本土を離れたことがないんだ」とティム・ハンセンさん(61)は答えた。
 私が訪ねたのは、沖縄戦で死んだデール・ハンセン2等兵のおい、ティムさん一家だ。デールは1945年5月11日、日本軍に狙撃され、22歳で戦死した。死後、名誉勲章を受け、沖縄の基地に名が刻み込まれる。


 シュワブ、キンザー、コートニー。沖縄の米軍基地の多くは、戦死した米兵にちなんで名づけられた。この島は米国人の血であがなった土地だという強烈な意識が、そこにある。
 キャンプ・ハンセンが、沖縄に何をもたらしたか。
 実弾演習による山火事や施設外の被弾は数え切れない。過去には幼児や女性が流れ弾を太ももに受けた。97年までは県道104号線を越えて砲弾を放つ射撃訓練が行われ、95年の少女暴行事件の加害米兵らが所属していたのも、この基地だった。
 「私たちは家族で農業をしているんだ。トウモロコシ、豆、麦。あのデールも同じ、田舎育ちの青年だった。こんな、きつい農作業をしていたんだよ」
 日本の記者に気軽に会ってくれる人の良い農夫一家と、半世紀以上、沖縄を締め付けてきた基地の印象が交わらない。
 あえて、彼らに聞いてみた。米軍基地は沖縄本島の約2割を占め、多くの県民は撤去を求めている。どう、思いますか?
 「よく分からないんだが、私たちにとって家族の名がついているのは名誉だけど、沖縄に基地ってまだ必要なのかな」
 デールは、人助けの好きな、家族思いの青年だったという。徴兵されなければ生涯、海外に行くこともなかったに違いない。22歳で戦死した若者の等身大と基地の暴力性。個々の生と国家の振る舞いの落差を思う。
 今世紀に入った頃、私は那覇支局員だった。いまは米国でニューヨーク支局長をしている。戦後の沖縄と米国のかかわりをたどることは、そんな記者の責務だろう。むろん私のペンでこれまでの68年間が書ききれるはずもないから、そこに生きた人たちの視線を、匂いを、肌触りを書くことに徹したい。
 大叔父と同じ名前の28歳の次男に、デール・ハンセンの墓に案内してもらった。一度は沖縄に埋葬されたが、掘り返されて故郷に帰ってきたのだという。トウモロコシ畑に囲まれた墓石に、沖縄と似た強烈な陽光が注いでいた。


第2章 敵と味方に分かれた兄弟

 戦争って、何だろう。
 沖縄で戦死し、米軍基地キャンプ・ハンセンに名を刻むことになったデール・ハンセン2等兵の親族たちと話しているうちに、そんな話題になった。
 自らの姓が日本語で「反戦」と同じ音とは知る由もなく、デールのおい、ティムさん(61)は、こんな言葉をもらした。
 「国を守るためにデールのような若い人たちが死ぬのはおかしいよ。なぜ年寄りではなく、これから国を支える若者が死なないといけないんだろう」
 そんな欺瞞(ぎまん)が最もはっきりと表れた戦闘のひとつが、沖縄戦だった。戦死者は、日本側の軍人軍属約9万4千人、米軍約1万2500人。小さな島に、おびただしい若い血が流れた。
 男子は「鉄血勤皇隊」、女子は「ひめゆり」の名が知られているが、日本軍は何の法的根拠もなく旧制中学などの生徒を動員し、約2千人のうち半数が命を落とした。沖縄守備軍の牛島満司令官が着任時、「一木一草まで戦力化すべし」と訓示したように、若者の命は草木並みに扱われた。
 1945年5月、22歳のデールが沖縄本島中部で少なくとも日本兵12人を殺し、数日後に狙撃されて死亡したころ、北部の名護市で胸に弾を受けて山中に逃げ込んだ16歳がいた。
 のちに琉球大学の学長となった東江康治(あがりえやすはる)さん(84)だ。
 県立三中にいた康治さんもやはり鉄血勤皇隊に入り、沖縄本島北部で米軍部隊と向き合っていた。ある朝、数人で待ち伏せしていたところ、米兵らと出くわして白兵戦となり、双方で5人が死んだ。
 生き残ったのは康治さんだけ、それも右胸を弾が貫通していた。「銃創を小指でほじったらすっぽり入った。横っ腹に穴が開いていると気づいたのは夕方でした・・・

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