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経済・雇用
朝日新聞社

元日債銀頭取が語る「あの時」 粉飾裁判、12年後の無罪

初出:2013年6月24日〜8月19日
WEB新書発売:2013年8月30日
朝日新聞

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 1997年の金融危機が幕を開ける前、ひとりの日銀マンが請われて大手銀行に入った。「天下り」とはほど遠い、重すぎる荷を背負う転身だった。頭取就任、金融危機、経営破綻、粉飾決算の疑いによる逮捕……。そして無罪判決の日は、雲ひとつない青い空だった。金融マンとしての職務を果たしながらも、金融危機の嵐に翻弄された元日本債券信用銀行頭取の東郷重興さんが、半生を語る。

第1章 粉飾裁判 12年後の無罪
第2章 昼食会、隣席に運命の人
第3章 召集令状と覚悟決めた
第4章 増資 トヨタに懸けたが
第5章 合言葉「恐慌起こさぬ」
第6章 公的管理ありきの検査
第7章 新しいステージ立てた


第1章 粉飾裁判 12年後の無罪

◎金融の嵐、無力だった
 わたしが粉飾決算の疑いで逮捕されたのは、1999年の夏です。
 あの年の正月、家族と沖縄旅行に出かけました。暖かい南の地で、迷惑をかけてきた妻や娘とひと息つきたかったからです。
 直前のクリスマスに日債銀が国の管理下におかれ、頭取を辞しました。そのとき、金融債をいっしょに売り歩くなどした日債銀の仲間たちから、旅行券をいただいたのです。

 《金融債という債券を地銀などに買ってもらって資金を調達する。かつて、長期信用銀行と呼ばれる銀行があった。日債銀はそのひとつ。ほかに日本興業、日本長期信用銀行もあった。興銀は、みずほグループに。長銀と日債銀は、破綻して国有化され、それぞれ新生、あおぞらと名前をかえ、普通銀行になっている。》

 沖縄旅行を終えてしばらくたった1月下旬、日債銀を司法当局が調べている、という国会答弁があったと知りました。正念場が来る、と覚悟しました。
 2月に衆議院、3月に参議院、それぞれの予算委員会に、参考人として呼ばれました。やましいことはなかったので堂々と語りましたが、世間には、ふてぶてしい悪人、と映ったことでしょう。
 冤罪(えんざい)事件も手がける小沢優一弁護士が、「万一のときは弁護するよ」と言ってくれました。都立西高、東大法学部の同級生です。
 4月、東京地検特捜部の任意での事情聴取が始まりました。連日、夜11時まで取り調べです。粉飾を認めろ、認めろ、認めろ、と3カ月。取り調べを終えると必ず、わたしは、小沢弁護士の事務所に立ち寄り、その日の取り調べの内容を確認しました。



◎娘の就職に悪影響
 《99年7月23日、東郷氏は、元会長の窪田弘氏、元副頭取の岩城忠男氏らとともに逮捕された。そして、有価証券報告書にうその記載をした証券取引法違反の罪で、起訴された。》

 大学4年だった娘は、銀行への就職を志望していました。面接で、わたしのことが話題になり、落とされました。大手電機会社に入社し、結婚もして、いま、幸せに暮らしています。
 わたしは1400万円の保証金で保釈されました。「早く罪を認めたほうがいい。裁判が長引いたら訴訟費用が払えないだろ」と言う人もいました。
 わたしは闘う決意でした。ただ、無職なので貯金が底をつきかねません。日銀を退職していた元同僚が、ある造船会社の社長にならないか、と誘ってくれました。彼が「東郷さんは無実です」とオーナーを説得してくれたのです。
 社長になり、望外の報酬をいただけて助かりました。その恩に報いようと、業績を伸ばしました。

 《2004年5月、東京地裁での第一審判決は、執行猶予つきの有罪だった。98年3月期決算で、不良債権を少なくして数字をよく見せたとされた。》

 97年から98年にかけては、不良債権処理の仕組みの過渡期でした。
 そのころ、償却証明という制度がありました。当時の大蔵省(現財務省)におうかがいを立て、これは「回収できない貸出金」である、と証明できれば、その貸出金を損失として決算上、処理します。税金を払う必要はありません。経営破綻した企業への融資、などがこれに当たります。
 ピンチだけども立ち直る可能性もある企業への融資、つまり「回収できない恐れのある貸出金」の場合は、処理に税金がかかることもあり、銀行は慎重に判断していました。

◎不良債権処理迫る
 そんな償却証明制度が、97年7月に廃止されました。税金を払ってでも「回収できない恐れのある貸出金」も含め不良債権は早く処理しろ、というのです。銀行に不良債権の処理を厳しく迫るためです。
 私が受けた有罪判決は、こういうことでした。
 「不良債権の処理額を少なくして損失を減らし、決算の数字をよく見せた・・・

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