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朝日新聞社

ふるさとは遥かなる北方領土 越中衆はかつて島を目指した

初出:朝日新聞2013年8月10日〜9月6日
WEB新書発売:2013年9月20日
朝日新聞

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 太平洋戦争後、北方四島から引き揚げた富山県出身者は、北海道に次いで多い1425人。なぜ、北の島に惹かれ、海を渡ったのか。終戦によってソ連軍に島を追われ、後ろ髪を引かれる思いで引き揚げた人たちは高齢化が進む。今も島の風景に思いをはせる元島民が、「故郷」への思いを静かに語る。一方、引き揚げが進むそのころ、同じ北方の樺太で日本人を守ることに尽力した富山県出身者もいた。その手記が明らかにするソ連軍占領の現実とは。

◇第1章〈歯舞群島・多楽島〉16歳、一人前のコンブ漁師に
◇第2章〈歯舞群島・多楽島〉ソ連兵上陸 船に米積み根室へ
◇第3章〈歯舞群島・志発島〉島へ復員、待っていた強制労働
◇第4章〈歯舞群島・水晶島〉幼き日の風景、いつも胸に
◇第5章〈南樺太〉町中が白旗 雪のよう 「被害最小限に」独自に判断
◇第6章〈南樺太〉何事も「まず市長に」 治安維持・食糧…庁員走る
◇第7章〈南樺太〉ソ連賛美の演説苦痛 収容所で栄養失調、47年帰国


第1章〈歯舞群島・多楽島〉16歳、一人前のコンブ漁師に

 滑川市北野に住む木野本定夫さん(86)は終戦まで、歯舞群島の中の多楽(たらく)島に住んでいた。
 1927年、今の黒部市の生地で生まれた。父の徳太郎さんは船乗りだった。2歳のとき、父は歯舞群島へ渡ってコンブ漁を始めることを決めた。当時、生地の漁師たちの間で、稼ぎの少ない沿岸漁業をやめて歯舞でコンブ漁をする人が増えていた。
 29年春、両親、兄ら家族5人で多楽島に渡った。多楽島は歯舞群島の最北に位置し、面積約12平方キロの小さい島。終戦のころには、約230世帯、約1450人が暮らしていた。
 木野本さんの記憶は、物心ついた頃、父が雇った人と一緒にコンブを干したり、切ったりする風景から始まる。島に1校だけの多楽尋常小学校に通った。一周しても20キロほどの島内を、隅々まで歩き回った。
 小学3年になったころから、家業のコンブ漁を手伝った。天気のいい日は、朝4時に起きて6時ごろからコンブを干し始める。マコンブは、背丈より長く数メートルはある。これを1枚ずつ広げて海岸で干す。数百枚を並べることもある。海水を含んだコンブは重かった。
 作業が終わらず、午前9時、10時を過ぎると、登校しても遅刻。遅くなりすぎて学校に行かないこともあった。クラスの友達もみんな手伝っていて、よく遅れてきた。
 小学校を卒業すると、本格的にコンブ漁に打ち込んだ。春コンブは5月1日から。10馬力の小型ディーゼルエンジンを付けた船で沖へ出る。長いサオを海に突き刺して、コンブをたぐるように引き揚げていく。
 最盛期は7月から。1人で150枚揚げたこともある。いいマコンブは素早く引き揚げるのがコツだ。9月、秋のコンブはすぐ近くの沿岸、船で5分ほど出た所でとれた。
 沿岸の海の色、水の透明度を見ただけでどこの場所かわかるようになった。それが出来ないと、霧深い日には帰れなくなるからだ。16歳のときには、一人前と呼ばれるコンブ漁師になっていた。


第2章〈歯舞群島・多楽島〉ソ連兵上陸 船に米積み根室へ

 歯舞群島の周辺は好漁場で、島々は漁業の拠点だった。捕鯨基地や缶詰工場もあったが、何よりコンブ漁が盛んだった。明治時代から多くの越中衆(県出身者)が移り住んだ北海道の根室から近く、越中衆が島々の開拓に努めた歴史がある。越中衆の地主も多く、県出身者が渡れば、コンブの干し場や諸権利を有利に借りることができた。
 木野本定夫さんらが多楽島沖でとったコンブは、根室へ運んで売った。浜から馬車で波止場まで運び、近所の親方が持つ輸送船に積み替えた。5、6時間で根室に到着。良質のコンブならまとまった金になった。
 1941年、太平洋戦争が始まり、2年後には島の青年学校に軍部から指導者が来た。仕事のかたわら軍事教練を受けた。隠れてたばこを吸った友人が見つかると、連帯責任としてみんな怒られた。
 仕事をずっと教えてくれた2歳上の兄勇さんが、徴兵で富山の部隊へ行った。
 45年8月15日、昭和天皇の「終戦の詔勅」がラジオ放送され終戦。木野本さんによると、9月2日夜、「あしたソ連兵が島に来る」と、島に駐留する日本兵が知らせに来た。翌朝、家の裏側の浜に、ソ連軍の船6隻が着岸。ソ連兵が続々と上陸してくるのを、木野本さんは見ていた。
 しばらくして、ソ連兵数人が家に来た。ソ連兵はロシア語で何か聞いてきたが、木野本さんも一緒にいた父、弟も何を言っているのかわからない。父が「わからない」と手を振った。ソ連兵たちは家を出て、しばらく近所を回った後、少し離れた日本軍の駐留場所に向かった。
 上陸したソ連兵は穴の空いたぼろぼろの服を着ていたが、日本軍の駐留場所を出てきた時、立派な日本の軍服に着替えていたことを木野本さんは覚えている。
 ソ連兵たちは間もなく船で去った。だが、9月6日にまた上陸。島民たちは、病院の建物を利用した日本軍の駐留場所に集められた。ソ連兵が武装解除を確認するためだ。
 「我々はシベリアに連れて行かれる。民間の人は逃げた方がいい。逃げなさい・・・

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ふるさとは遥かなる北方領土 越中衆はかつて島を目指した
216円(税込)

太平洋戦争後、北方四島から引き揚げた富山県出身者は、北海道に次いで多い1425人。なぜ、北の島に惹かれ、海を渡ったのか。終戦によってソ連軍に島を追われ、後ろ髪を引かれる思いで引き揚げた人たちは高齢化が進む。今も島の風景に思いをはせる元島民が、「故郷」への思いを静かに語る。一方、引き揚げが進むそのころ、同じ北方の樺太で日本人を守ることに尽力した富山県出身者もいた。その手記が明らかにするソ連軍占領の現実とは。[掲載]朝日新聞(2013年8月10日〜9月6日、9600字)

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