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朝日新聞社

刑事の結界外伝〔1〕 ハンドル握る手の先、赤き閃光は照らしていた

初出:2013年8月1日〜8月22日
WEB新書発売:2013年10月11日
朝日新聞

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 神奈川県警に伝説と呼ばれるパトカー乗りがいた。「おつとめに行って参ります」。そう言って出発するいつものパトロール。例え110番を知らせる無線が一つもない日でも、パトカーの座席で眼光が鈍ることはない。わずかな違和感も見逃さないその技は、すべて先輩たちから盗んできた。目を凝らし続け、耳を傾け続けた街の姿が、いま甦る。迫真の事件現場や捜査の舞台裏を克明に描いた「刑事の結界」に、「外伝」シリーズ登場。

◇第1章 福井、落とす
◇第2章 福井、出勤


第1章 福井、落とす

 2013年7月13日朝。大和署3階の講堂に、当直を交代する制服姿の警察官が集まった。両襟にえんじ色のバッジをつける一群がいる。パトカー乗務員だ。
 無線を示す金色の稲妻模様に白色のハンドルをかたどるバッジは、パトカー乗りの証しだ。
 出発前、地域1課長が口を開いた。こんな先輩がいた、と。
 「カラスの鳴かぬ日があれど、パトロールに出かけて検挙なき日はなかった」
 1982年。午前3時。巡査の福井幸二(34)は、金沢署の駐車場に停車させていたパトカー2号車に乗り込んだ。助手席には相棒が座る。10歳以上も年の離れた後輩の巡査だ。
 「おつとめに行って参ります」
 福井の相方となる若い警察官たちは、そう口にして署を出るのが慣例だった。
 「金沢2から神奈川本部、金沢2から神奈川本部。2時間予定で警ら(巡回)開始。どうぞ」
 相棒が助手席のダッシュボードに備え付けた無線機に手を伸ばし、プレストークボタンを押す。パトロールの開始を県警本部の通信指令室に伝える。
 「了解」
 なじみの澄んだ声が、車内に届く。
 トヨタマークIIのギアをローに入れ、アクセルをゆっくりと踏み、ギアをセカンドへ。ハンドルを右に切り、署の前を走る国道16号に出た。
 この日は、110番を知らせる無線がひとつもない。回転数をあげ、ダブルクラッチの操作もいつも通り。ギアチェンジは滑らかだ。福井はいつになく、抵抗の少ないアクセルの踏み心地を覚えた。


 金沢署の福井幸二(34)の深夜のパトロールのルートは決まっている。地元の中心を走る京浜急行の金沢八景駅と金沢文庫駅の周辺だ。
 福井の夜がはじまる。
 金沢文庫駅にパトカーを走らせていた福井の目に、不可解な景色は入ってこない。日が出ている時間帯は、利用客でにぎわう駅も、終電を過ぎれば人の気配は消えてしまう。その時間帯の通行人は、まるで声をかけて、と合図を送っているようにも映る。
 駅に着いた。異常なし。
 その周辺を走り、国道16号を南下。金沢八景駅に向かっていた。
 「あと1時間か……」
 福井はハンドルを握りながら、左腕に巻かれた時計にチラリと目をやった。針は午前4時を回っていた。
 金沢八景駅も、静けさに包まれていた。再び国道16号を北へ向け、アクセルを踏んだ。神社前の交差点を目の前に右折してみた。左手には住宅が並び、右手には平潟湾が広がる。わずか200メートル先の3ブロック目の交差点を左折。湾を背に、住宅街に走らせた。
 直後のことだった。前をスタスタと歩く男の後ろ姿が目に入った。この男は駅から遠ざかるように歩いていく。終電はとっくに走り去った。始発まで、まだ1時間ほどある。
 住民だったらとっくに帰宅の途についているだろう。酒が入って千鳥足になっている様子もない。
 福井の目にはますます怪しく映った。
 せめて住所だけでも聴いてみようか――。
 「止めるから」
 10歳以上も年の離れた相棒にそう言うと、パトカーをゆっくりと男の背後に近づけていった。
 「怪しいですね」
 迫ってくる男の背中に、相棒も何かを感じたようだ。
     ◇
 福井幸二(34)は、気になる後ろ姿を見つけると、体格や所持品から間合いを読む。職務質問のタイミングをうかがうのだ。
 横浜市金沢区の住宅街は、夜明けを迎えるにはまだ早かった。街灯の少ない夜道がまっすく延びる。パトカーのその先に、男が歩いている。ほっそりとした背格好だとはわかった。片手にセカンドバッグを持っているようだった。
 道路の左脇をペタペタと音を立てて歩く男の背中は、まもなくだ。助手席に座る相棒はクルクルッと、手回しでウインドーを全開にする。パトカーが止まる。相棒がシートベルトを外した。全開の窓から、顔を少し出した。
 「おはようございます」
 職務質問に入る前には、まずあいさつだ。それも穏やかに。福井の教えだ。制服姿に畏怖(いふ)してしまう相手を落ち着かせる。そして、心のスキを突く――。
 住宅街とはいえ、暗い夜道だ。街灯は薄い光を当てていた。一瞬こちらに向けた男の顔が、福井にもかすかに見えた。
 「30〜40代、パチンコでもやってそうな遊び人風」
 警察署にはそう報告するだろう。
 不意を突かれた。男はくるりと向きを変えてしまった。逃走だ。
 「待てっ」
 相棒の吐き出した声が、夜明け前の住宅街に響きわたった。相棒は慌てて車を降りた。
 「なにか、してるな」
 福井は一呼吸おいて、降りた。数秒もするとパトカーは自動施錠される。カチャッと音を聞くと、福井も2人の後を追った。
 突き当たりは平潟湾だ。
 右か、あるいは左か。若い相棒は全力で男を追いかけている。
 「たぶん左に曲がるな・・・

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