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スポーツ
朝日新聞社

ドーム球場は一つもなかった 懐かしの野球場の痕跡をたどって

初出:2013年10月28日〜11月1日
WEB新書発売:2013年11月15日
朝日新聞

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 「昭和の大阪城」「光のスタジアム」「初のスピードガン」……どこの野球場か分かりますか? 野球場に屋根がないのが当たり前だったころ、プロ野球は「国民的娯楽」の王様でした。いつのまにか日本中にドーム球場が出現し、夢も名勝負も歓声も怒声も閑古鳥も、何もかもが詰まっていたかつての野球場は次第に姿を変え、あるいは消えていきました。あの時、確かに熱狂の地だったその跡は、いま一体どうなっているのか。5つの球場をたどります。

◇第1章 昭和の大阪城、やがて閑古鳥
◇第2章 ブルペンに出前、下町照らす
◇第3章 被爆地のまぶしい別世界
◇第4章 ヤジと瓶飛ぶ、野武士の根城
◇第5章 エースが振り向く球速表示


第1章 昭和の大阪城、やがて閑古鳥


 2013年で64回目を迎えたプロ野球の日本シリーズは、数々の名勝負を生んできた。1979年、近鉄―広島の第7戦は「江夏の21球」として語られる。その舞台は、どちらの本拠地でもない大阪球場だった。近鉄の球場が収容人数や照明設備の関係で使用できず、南海ホークスの本拠球場を借りたのだ。
 「日本シリーズともなれば、客は満員やった。そやけど、ふだんはガラガラ。ホークスは鷹(たか)やのうて、閑古鳥やった」。南海ホークス最後の私設応援団長、古妻和男(こつまかずお)(67)は笑う。
 大阪を代表する繁華街、ミナミのど真ん中。周囲のにぎわいとは対照的に、球場内は閑散としていることが多かった。「お前の顔は1円玉や」。関西らしい楽しいヤジも、それゆえよく響いた。「それ以上、崩せんっちゅうことや」
 「内野席の一番上から、よう紙飛行機を飛ばした」。古妻は懐かしむ。「最後はマウンド付近に必ず落ちる。ホンマやで」。限られた敷地に建設したため、スタンドが急勾配ですり鉢状の形状になった影響だろうか。「紙飛行機は飛ばさないで下さい」と場内アナウンスされたという。
 球場ができたのは日本がまだ占領下の50年9月。南海の選手兼任監督だった鶴岡一人(つるおかかずと)(当時山本〈やまもと〉)らは、建設許可と協力を取り付けようと、連合国軍総司令部(GHQ)経済科学局長のマーカット少将を訪ねた。「球場の周辺には不良がおらん。力を貸そう」と約束をもらった。
 開場式を見に行ったという奥野敏明(おくのとしあき)(76)は「どえらいもんができた」と驚いた。バラックがひしめく中にできた球場は、「昭和の大阪城」と呼ばれた。

 球場ができたよ球場が
 大阪ナンバの真ん中に

 炭坑節の替え歌で、宣伝歌もできた。2番はこう歌う。

 昔建ったが大阪城
 今度できたがスタジアム
 太閤(たいこう)さんでも舌巻いて
 おれには手も出ぬホームラン

 昭和30年代、パ・リーグの覇権を競った南海―西鉄の黄金カードは、球場がファンであふれた。奥野は道頓堀の飲食店で働いていたが、「試合が終わるまで客は来なかった」という。
 テレビが普及し、セ・リーグに人気が集中するころから、南海は成績、人気とも低迷する。道頓堀でスポーツバー「難波のあぶさん」を経営する武知義一(たけちよしかず)(60)は当時、店の客や商売仲間とツアーを組み、応援に繰り出した。「おれらが座っとる辺りにボールを二つ投げろや、と選手に頼んでおくと、こたえてくれたもんや・・・

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