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朝日新聞社

プロメテウスの罠〔38〕 医師、前線へ「ヨウ素剤、飲ませるべきだった」

初出:2013年10月19日〜11月15日
WEB新書発売:2013年11月29日
朝日新聞

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 「甲状腺の測定すらまともにできなかったこの国に、原発のような巨大システムを動かす能力があるのだろうか――」。3・11直後に福島入りした被曝医療の専門家らは放射能汚染の広がり、数値の高さに驚く。子供たちを含む多くの避難民や患者に安定ヨウ素剤を服用させるべきだと主張したが、提言は却下された。一方、国の医療班は来ず、「原発内からの患者」を拒む病院もあった。情報も人手もなく最前線で当惑し憤る医療当事者の苦闘を通して、原子力行政の無力を問う。

◇第1章 被ばく専門「出番だ」
◇第2章 訓練の前提、総崩れ
◇第3章 最後に笑顔で写ろう
◇第4章 スピーディって何?
◇第5章 国の医療班…来ない
◇第6章 遅れて来た官僚たち
◇第7章 涙流し抱きつかれる
◇第8章 町長「検査に行くぞ」
◇第9章 何でここだけなのか
◇第10章 え?俺たちがやるの
◇第11章 原発、何すんねん!
◇第12章 逃げても恨まない
◇第13章 きちゃったのか
◇第14章 現場戻された負傷者
◇第15章 「赤」は除染せず治療
◇第16章 被爆の母、同じ不安
◇第17章 搬送はTVで知った
◇第18章 薬局で提供「いける」
◇第19章 服用の指示が出ない
◇第20章 「ヨウ素剤信仰だ」
◇第21章 まさかの広範囲汚染
◇第22章 聞く度に話変わった
◇第23章 消えたファクス
◇第24章 測定機、あったのに
◇第25章 ベラルーシに驚いた
◇第26章 福島を「我が事」に
◇第27章 仕事に終わりはない


第1章 被ばく専門「出番だ」

 2011年3月11日午後。長崎大医学部の助教、熊谷敦史(くまがいあつし)(40)は長崎空港に向かうバスの中にいた。
 青森の弘前大で緊急被ばく医療の講演をする予定だった。
 妻からメールが入った。
 「東北地方で大きな地震がおきたけど、大丈夫?」
 向かう先で大地震が起きていることを、このメールで初めて知った。
 熊谷は国内に30人ほどしかいない緊急被ばく医療の専門家だ。
 大学病院内の永井隆(ながいたかし)記念国際ヒバクシャ医療センターに所属し、甲状腺がん患者の治療のかたわら、「在外被爆者」の健康調査を続けていた。韓国、ブラジルなどに住む広島・長崎の原爆被爆者のことだ。
 バスの中から携帯電話でニュースサイトにアクセスした。「予想される津波の高さは10メートル」とあった。驚いた。空港に着くと、ロビーのテレビにかじりついた。大津波にのみ込まれる町が映し出された。
 熊谷は思った。
 「出番だ」
 熊谷は数年前から佐賀県にある玄海原発の避難訓練に参加している。訓練では、震度5程度で原子炉の冷却が止まると想定していた。
 今回は震度6を超えている。大津波もきた。
 「福島や宮城の原発が危ない」。そう直感した。
 弘前大の講演が中止になったことを確認し、長崎大に戻った。
 ヒバクシャ医療センターといっても10畳の部屋に机と書棚があるだけだ。赤字部門なのでテレビもない。熊谷は上司の大津留晶(おおつるあきら)(56)と、パソコンでニュースに見入った。
 状況は深刻だと感じた。「とにかく現場に行かなければ」。思いが募り、センター長の山下俊一(やましたしゅんいち)(61)に何度も電話で訴えた。
 「福島に行かせてください!」
 山下は「調整するから待ってくれ」といった。
 3月12日、連絡を取り合う広島大の医師から「文部科学省から派遣要請がきた」と明かされた。このまま長崎大に要請が来なかったら……。
 熊谷は焦った。自分は「有事に備えよう」と全国で講演してきた。その自分が有事に動かなかったらだめじゃないか。
 13日、ようやく派遣要請がきた。午後7時、長崎空港発の羽田行き最終便に飛び乗った。


第2章 訓練の前提、総崩れ

 文部科学省から長崎大に派遣要請がきたのは2011年3月13日の午後1時過ぎ。熊谷敦史(40)を始め医師、看護師ら5人が福島入りすることになった。


 夜遅く羽田に着き、まずは千葉市の放射線医学総合研究所(放医研)を目指す。着いたのは14日午前1時過ぎだった。会議室に入ると、理事長の米倉義晴(よねくらよしはる)(65)がカップめんをすすっていた。疲れた表情だ。理事長自ら深夜まで仕事とは……。よほどの事態だ、と熊谷は緊張した。
 米倉から伝えられた現地の様子は深刻だった。
 避難住民の検査では数千カウント(cpm)が続出していた。シーベルトが被曝(ひばく)量を表すのに対し、これは1分間に体から出る放射線の数を測った値。このときは1万3千cpm以上が除染対象だった。
 被曝患者に初期対応するはずの医療機関も避難。
 原発から30キロ圏内は飛行禁止、とも聞いた。
 熊谷が経験した玄海原発の事故訓練では避難は数百人規模だった。福島では数万人単位で避難が始まり、想定した避難所は原発に近すぎて使えない。前提が崩壊していた。
 3月14日午前8時、会議が開かれた。放医研緊急被ばく医療研究センター長の明石真言(あかしまこと)(59)の姿があった。会うのは1カ月ぶりだった。
 2月、長崎大で緊急被ばく医療に関する世界保健機関(WHO)の会合が開かれた。熊谷がWHOとの調整役を務め、明石は講演をした。
 この会合では「東南アジアで被曝患者が出た際の支援」が論点になった。まさか、国内の事故で顔を合わせるとは思わなかった。
 会議が始まり、熊谷は戸惑う。現場の状況が入っていないのだ。初期対応するはずの医療機関の情報がない。最前線に送り出した医師とも連絡がとれない。明石は苦悩の表情を浮かべていた。
 11日の震災発生時、明石は東京都文京区にいた。2時間かけて千代田区霞が関まで歩き、原子力安全委員会の委員長室で待機する。そのまま夜を明かしたが、情報らしい情報を得ることはできなかった。
 電車で放医研に戻ったのは12日夕。そこにも情報は入らない。
 このころ、放医研へ情報収集にきた広島大教授の谷川攻一(たにがわこういち)(56)は、明石の困惑ぶりを覚えている。
 「明石さんから困った顔で、どうしたらいいんでしょうかと相談されました・・・

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