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朝日新聞社

震災自体をなかったことに 「不都合な真実は隠蔽」こそが権力の神髄

初出:2013年3月10日〜2013年9月7日
WEB新書発売:2013年12月6日
朝日新聞

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 昭和の戦時下、死者・行方不明者が1千人を超える大震災でも情報はたやすく隠された。戦後、日米間の重大な「密約問題」は、いつの間にか男女問題にすり替えられた。この国の情報公開法が施行されたのは、21世紀になってからだ。政治家も役人も、都合悪い情報は墓場まで持って行こうとする。問題は、「大本営発表」に溺れていても何の疑問も持たない、変わらない国民性ではないのか。昭和史の出来事を再訪し、その本質を省みる。(年齢、肩書は掲載時のものです)

◇〈昭和19年12月7日〉昭和東南海地震/戦時下、震災は隠された
◇〈昭和47年4月4日〉外務省機密漏洩事件/知る権利に政官の逆波
◇〈昭和57年3月19日〉日本初の情報公開条例公布/町の熱意、流行作った


〈昭和19年12月7日〉昭和東南海地震/戦時下、震災は隠された

 それは日本が米英に宣戦を布告してからちょうど3年を迎える前日のことだった。戦局は悪化し、東京へのB29の空襲も激しくなっていた。
 1944(昭和19)年12月7日午後1時35分ごろ、熊野灘沖を震源とするマグニチュード7・9の地震が起きた。津波を伴い、静岡、愛知、三重の3県を中心にした東南海地方と、長野県諏訪盆地に大きな被害をもたらした。気象庁によると、死者・行方不明者は1223人におよぶ。


 だが、その実態が一般に知られるようになったのは戦後何年もしてからである。戦時中は新聞やラジオなどに厳しい報道管制が敷かれていたからだ。戦後の飯田汲事(くみじ)・名古屋大教授(故人)の調査によると、戦闘機などの軍需工場が集まる名古屋市、愛知県半田市では計約300人の死者が出た。その多くが勤労学徒だった。これらの被害は「極秘」「厳秘」とされた。
 翌日の朝日新聞は対米開戦3年にあわせ、1面トップに「大元帥陛下御精励」という見出しで昭和天皇の写真を大きく載せた。地震はいわゆる三面記事で「一部に倒半壊の建物と死傷者を出したのみで大した被害もなく……」などと短く報じただけだった。


 作家上坂高生(うえさかたかお)さん(85)が77年、震災をテーマに書いた児童文学「あかりのない夜」には、娘を失った老婆の姿がこう描かれる。「『あの地震の話をしていいのですか。』……老婆は、胸に組んだ手をふるわせ、おびえた」。被災者も口をふさがれた。その体験が、30年近くたっても心を締めつけていたのだ。
 いま、静岡県袋井市の同市立袋井西小学校では12月7日を「防災の日」とさだめる。
 地元で長く小学校教諭をつとめた筒井千鶴子(ちづこ)さん(77)は被災体験と防災の大切さを子どもたちに話す活動を続けている。地震が起きた時は袋井町西国民学校(袋井西小の前身)の4年生。校舎の屋根の下敷きになり「たすけてぇー」と叫んでいた。「子どもの真剣な表情に接し、体験を語り継ぐのは自分たちの世代の務めだと思う」と語る。
 体験を語る時に用いる紙芝居は、一つ年下の市川和子さん(76)が描いた絵本「東南海地震 八歳の記憶」をもとにしている。市川さんは習字の授業中、教室の床が波打つように上下し、裸足で外に走り出して校庭のイチョウの木にしがみついた。大工だった父親がジャッキを持って駆けつけ、つぶれた屋根の下から子どもを助け出した。それでも同校では、20人の子の命が奪われたのだった。


 戦後、震災の記録を残した学校教師もいる。
 尋常高等小学校で教鞭を執っていた大庭正八さん(92)は地震直後、地元の静岡県・掛川周辺の被害状況を調べ始めた。間もなく「スパイだと疑われるぞ・・・

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